本文へスキップ

医療法人秋桜会

電話でのお問い合わせはTEL.0995-43-3111

〒899-5111霧島市隼人町姫城3丁目86番地

_院長随想

                        

選手寿命・診療寿命をながくするものは何か? 三浦知良選手のJ1最年長出場から考える
―睡眠時無呼吸症候群の治療を受けている私の経験からー
―三浦知良選手のJ1最年長出場から―
―睡眠時無呼吸症候群からー



日当山温泉東洋医学クリニック 徳留一博

1, はじめに
選手寿命、診療寿命とは聞き慣れない言葉であるが、ここではプロスポーツ選手が高齢になっても第一線で活動していることを「選手寿命」とする。医師が高齢になっても現役で診療していることを「診療寿命」とする。競技や診療を引退したときが選手・診療寿命が終った、ということにする。
2, 三浦知(かず)良(よし)選手・古江増蔵先生のこと
2020年9 月24日の新聞の一面に、三浦知良(以下カズと書く)選手の快挙が報道された。
カズJ1最年長出場 53歳6か月
カズ熟練の攻め 13季ぶりJ1躍動
日本サッカーを代表するカズがJ1のピッチを駆けたことが報道された。サッカーという過酷なスポーツを20代・30代の若者と競り合って、プレーするのである。讀賣新聞は次のように書いている。
髪には、白いものが混じる。「人間は衰えていくのが普通。自分との戦いも、(伸び盛りの)若い人との勢いとの戦いもある」
そこで考えた。医療の分野でカズに相当する医師はどんな方々だろうか。本稿では80代後半以降を現役で診療されている医師と考えていく。そうすると私の頭に浮かんできたのが古江増蔵医師である。先生は霧島市の開業医で、98歳で現役である。2019年度の赤ひげ大賞を日本医師会から贈られた。日進月歩の医療の世界だ。昔ながらの医療では不安であり、患者さんに寄与できない。カズの「伸び盛りの若い人の勢いとの戦いもある」は古江医師の場合、変化する医学の進歩にも対応していくということだろうか。
3, 選手寿命・診療寿命をながくさせているもの
カズ・古江医師のことを妻に話し、何が選手・診療寿命をながくさせているのだろうかと、問うてみた。妻は即座に「カズさんは人柄がいい」と答えた。意外な答えだった。しかしよく考えると、「人柄がいい」ことはチームの中に溶け込み、若い選手と仲良くやっていくなどと関係してくる。また過去を引きずらない、ストレスに上手に対応できるなどとも関連がある。また理由として「性格」も挙げられるが、性格が人柄の基本にあると考えるとなお理解しやすい。
妻との会話の後、「人柄」以外のことで選手・診療寿命をながくするものを考えてみた。体力・精神力の保持には大変な努力があると思う。これらについてはここでは触れない。
他の要素として、私は「よい睡眠」を挙げたい。カズや古江医師はいつでもどこでもぐっすり眠れるのではないだろうか?
4、 睡眠について
睡眠は生きものだけにみられる行動である睡眠中には成長ホルモン・メラトニンなどが分泌されて、活動した体を修理し翌日に向けて再セットする。実際、睡眠時無呼吸症候群(以下SASと書く)の研究からも、血管・循環器や認知機能など多くの臓器に影響を与えていることが分っている。
5、 私のSASの遍歴
睡眠を選手・診療寿命をながくするものとした理由は、私自身のSASの経験からきたものでもある。
私のSASの経過はながい。睡眠ポリグラフ検査は4回受けている。当初(還暦のころ)の2回は呼吸の状態・酸素不足の割合もたいしたことなくマウスピースをはめたらいいでしょうくらいであった、後半(古稀のころ)の2回は加齢と共に、重症になってきており、持続式陽圧呼吸療法(以下CPAP療法と書く)の適応になっていた。しかし実際はいろいろ理由をつけて先延ばしにしていた。
ところがある夜、ながい無呼吸が起ったのであろう。無意識のうちに飛び起き、やっと息継ぎができた。呼吸ができてホッとしたら、動悸が起っているのに気づいた。不整脈だ。私はこのときはじめて恐怖を感じた。心室細動が起ったら心停止だ。突然死の多くは心室細動である。
6, 私のCPAP療法の経験
この無呼吸後の不整脈をきっかけにCPAP療法を受けることになった。マスクをつけて就眠して驚いた。その効果がすごい。マスクを装着した夜は途中で目を覚ますことなく、翌朝はいつもより1時間も早く、午前5時半に起床できたのである。しかも庭の草取りまでできた。
このことから分かるように良質の睡眠は人(ヒト)に大きな影響を及ぼす。よい睡眠は選手・臨床寿命に影響を与えない筈がない。私は現在77歳であるが、診療寿命をながくするために、CPAP療法は今後も続けていくつもりである。
7, 私のクリニックでのSASの診療
このような経験から、私のクリニックでもSASの診療を行うことにした。現在までCPAP 療法をすすめ治療に入った患者さんは40人になる。だがそのうち現在も続いている方は10人である。多くの人は続けられないといって、中止する。その理由はいろいろだ。呼吸がし難い、風がうるさい・冷たい、寝苦しいなどである。
 中止の患者さんの心情も理解できる。マスクで鼻を覆い就寝するのだから違和感は確かにある。一方、無呼吸で体は大きな被害を受けているのだから、中止の患者さんを気の毒にも思う。私のように危険を感じるようになって、そのとき再びCPAP療法を受けるようになるだろうとも、考えたりする。
8、おわりに
53歳のプロサッカー選手カズが現役でプレーしていることから、その活動の要因を考えてみた。私自身のSASの経験からも良質の睡眠も大きな理由に挙げられると考えた。

補遺:SASの原因として肥満・短い首・小さな顎などがあげられているが、私はどれもない。私の経験からは加齢による神経・筋の脆弱(フレイル)が大きいと考えている。
加齢が大きな原因とすると、検診のように睡眠時の無呼吸チェックが望ましいと考えるようになった。そのためには節目の検診(還暦・古稀の年など)に睡眠ポリグラフ検査を入れたらどうだろうか。私の経験では還暦のころ症状が出始めたが軽症であった。ところが古稀のころには重症になっていた。まだまだ高齢者ではないと思っていても、フレイルは一挙に進んでいるのである。




足は手以前の「第2の脳」
       ―情緒表出の場としての足ー
     姶良地区内科医会  徳留一博

 映画「後妻業の女」をみて、足は見事に人間の感情を表すということを知った。
 現在65歳以上の人暮らしは600万人。男は5人に一人、女は2人に一人が独身という。このような世相を背景に、結婚相談所で効率よく相手を見立て、資産を狙って結婚詐欺を働くのが後妻業の女である。巧みな工作で殺人まで進むこともある。現実に数年前京都府下で事件が起こっている。
 映画では、主役の女(大竹しのぶ)が男に呼び出され、指示された場所に向かう場面がある。遠景で表情は分からないが、怒りを足に叩きつけるように歩く姿が描き出される。怒っているとしかいえない歩きかた(足の所作)である。大竹は、無頼な女性を怒らせたときの動作を見事に足で演じたのである。映画自体は面白おかしく展開して終わったが、私にはこの場面が記憶に残っている。
 このような足の動きを感情表出の場と捉えると、診断に使えると思った。手は第2の脳といわれるが、足もまた第2の脳であるといえそうだ。
 足が伝えるのは非言語の感情の動きである。足は手のように細かな所作ができないので、足の感情表現は歩き方が主になるようだ。
あらためて歩き方を感情表出という観点から考えてみる。足音の強弱,高低は感情だけでなく、体力の虚実も判断できそうだ。足音の高低で天候の影響も分かりそうだ。足の運びは敏捷さを示すが、品位も示すようだ。ファッションモデルの動きがそうである。考えていくと、尽きない。
 歩き方以外でも表現はできるようだ。地団太踏むも一例である。
また怒り以外の表現もある。喜びの場合、歓喜のときがよく感情が出ると思われる。私が研修医時代のころ、花見の際の2歳の長男の動きを俳句にしたことがある。
 花吹雪叫びて吾子の脚躍る 
考えてみると、大人は喜びをそれほど足では表現しないようだ。幼児の脚の動きでの感情表出はしばしばみかける。それは手で巧緻な所作ができないからだろうか?言葉で十分に表現ができないからだろうか?
幼児が喜びを足で表出するのは、脳の発育・発達の未熟な段階のものではないだろうか。最も原始なヒトの脳の働きのようにも思える。その根拠は、ヒトの脳は12歳で大人の脳の大きさになるということ、である。
歩き方については以前から思っていたことがある。妻の歩き方は妻の弟に似ている。そう思って観察していたら、母親にも似ていた。考えてみると当然なことである。1歳児の動きの模範は100パーセント両親だろう。歩きも両親の歩きを見様見真似で修練(無意識)し獲得していくものと思える。そうであると、人の歩き方には少なくとも数代前の先祖の動きも宿っているともいえそうだ。
 このような足の動きを診療の場で生かせないだろうか。神田橋條治先生は臨床の場で足の動きをも注目されている(治療のこころ・巻四)。先生は待合室の患者さんを自ら呼びに行かれるようだ。そのときの描写が次のように記載されている。
 “ボクが名前を呼んで、その人が立ち上がる動作なんだよね。椅子から立ち上がる動作の中に、その人の心身のコンデイション、あるいは情緒の状態がいちばんよくあらわれている。”
 神田橋先生は精神科だが、内科外来でも先生の洞察は生かせそうだ。認知症患者さんの日々の状態把握に使えそうだ。
乳幼児とは逆に衰えていく脳では、手の巧緻な表現・言葉による表現が出来なくなる。そのとき脳が足を使って、情緒の表出を行うのではなかろうか。認知症患者さんの足は喜・怒・憂・思・悲・驚をどのような動きで表すだろうか?
女優大竹しのぶの足での表現が見事だったので、足の動きについて考えてみた。役者の好演技が、診療の場で足の動きが参考になることを教えてくれた。




マスクについて二、三のこと

 新型インフルエンザ発生で、鹿児島県内もこの数ヶ月、マスク・マスクで大騒ぎであった。
マスクの効用は認めるものの、私はマスクが苦手だ。自慢ではないが、開業して28年の診療で、マスクを付けたことはない。今まではインフルエンザの流行期でもマスクを付けたことがない。これこそがプロだと、密かに自負しているのだが。
私のマスク苦手には、理由というより、一つの思いがある。それはマスクを付けている人の表情が分らず、怖さを感じるのである。このあたりの心理を明快に表現した佳句がある。
手術前マスクの医師に問いがたし 
有馬さざれ石
 たった一枚のマスクが、人と人との交流を容易に断ち切ることを示している。医師が診療の際、マスクをしての対応は、患者さんに大変な圧迫感を与えるのではなかろうか?殊に初診では、患者さんは医師の顔を知らないので、なおさらであろう。このような思いから、私はマスクを付けないことにしている。
この冬のマスクの思い出を一つ。初診の患者さんと付き添いの方が二人ともマスクをして、診察室に入って来られた。初対面の顔を知らない人物二人と対峙することは、不思議な変な気持ちであった。そこで勇気を出して、数秒でいいからマスクを外して下さいと、お願いしたことがある。
私たち医療に関わる人は、マスクがこのような一面を持っていることを知っていた方がいいと思う。
マスクで困ることの一つに歯科受診がある。歯科医にとってマスクは、私たち内科医よりも必要で欠かせないものと思われる。でも、「どうありますか?」とマスクを付けた歯科医から問診は、私は苦手である。マスクが大きな障壁になるのだ。答えようとしても何もしゃべれない。おまけに仰臥位に近い処置台の上である。医療面接という点で、マスクのもつ二面性を、歯科医も認識する必要があるように思える。
マスク嫌いの私が、好きなマスク姿の写真がある。それは、土門拳の作品で、赤十字入りのキャップを被りマスクを付けた一人の看護実習生の顔写真である。昭和13年の作品(土門拳全集12・小学館)で、タイトルは「看護実習」である。看護キャップとマスク、それに目の部分だけが写っているだけの写真であるが、清楚な少女の、悲しいまでの青春の瑞々しさが表現されている。
たった一枚のマスク、たかがマスク・されどマスク!考えていくとつきないものがある。       
  (鹿児島県医師会報:2009.8)


子から母への粋なプレゼント
 -誕生日はその母の母難日である―
 ―母おもふ山幸多き四月かなー 
姶良地区   徳留一博―
 
近くに住む子供の一人は9月が誕生月である。誕生日のその日、息子が母親(私の妻)へ2個のショートケーキを持ってきたようだ。夕方帰宅したら卓上にケーキが置かれていた。
「母難日」が分ってくれたのだ!粋なプレゼントである。
私は3人の子供に各々の誕生日は母親の「母難日」であることを、かねてから語っていた。
十数年姶良地区医師会館で、生涯教育の一環として僧侶を講師として招いた講演会があった。そのとき記憶したのが「母難日」という言葉で、妙に合点がいった。「母難日」とは母親が最も苦労した困難の日である、という意だ。
人の誕日は母親がミクロの状態から3キロ前後の胎児に育て、体外(この世)に送り出す日である。感動的なことではあるが、数時間の陣痛をはじめとして、大変な作業である。
胎児は母が摂取した食事で育っていく。妊娠中はつわりをはじめいろいろなことが起る。妊婦の体は一日一日変化していく、たとえば心拍出量と循環血液量の増加は妊娠28週には通常の150%に増加するという。新しい生命を生み出すことは、このように容易なことではない。それを母親の体一つで育てているのだ。
誕生日は母親が肉体的に精神的に努力した10か月の総決算の日(母難日)である。生命の誕生(出産)は単に生まれたのではない、母親の10か月の努力の結晶だと、僧侶は講演で私たちを諭されたのだ。
この講演の後から、誕生日は母親への感謝の日であり、思いを馳せる日であると思うようになった。母親が亡くなった人にとっては母を偲ぶ日である。                          
医師になりたてのころ、俳句をかじった。4月母からワラビや春の野菜が届いたとき、単純ではあるが素直に次の句ができた。
母よりの山幸多き四月かな
母がいたときは過ぎた。この句は次のようになった。
母おもふ山幸多き四月かな
毎年四月はこの句を舌上に転がして過ごしている。

追記;大学時代の下宿のおばさんの言葉を思い出す。明治の末の生まれの方で5人の母親であった。出産のとき大出血などで、自らの死亡があるかもしれないので、身辺を片付けて出産に臨んだ、という。時代・衛生事情から考えると事実だった、と思う。
    (日当山温泉東洋医学クリニック)


白内障の手術を受けて
           徳留一博
 
令和1年の6月、白内障の手術を受けた。この6月は美智子上皇后が白内障手術を受けられ話題になり、山形の眼科クリニック院長の女性医師が殺害された月でもあった。
白内障は以前から指摘されてはいた。その対策として八味地黄丸を数年内服していたので、腎虚の一環としての白内障の進行も阻止できると思っていた。それなのに手術止むなしとなってしまった。相撲でいうとうっちゃりも出来す、寄り切られてしまった感じである。何に寄り切られたのだろうか?加齢(時間)としかいいようがない。
私のクリニックでも多くの患者さんが白内障手術を受けている。その中には、部屋の隅のほこりまでみえるようになった、皴までみえて困った、などの言葉を聞くことが多い。私もそのようなことを期待していたが、そこまではいかなかった。字をみて疲れない、よく出ていた涙が出なくなった、などの症状が消えた。
困った症状は消えたが、みえ方がどうもしっくりしない。二つの世界に住んでいる感じだ。夜の運転のとき対向車のライトが幼児の描いた日光のように派手に光を放つ。そのような感覚が昼間もあるのだ。ものがその感覚であらわれ、コンマ何秒かのあと、現実の世界があらわれるのである。
白内障手術を受けようと思ったとき、「夜はまだあけぬか」(梅棹忠夫著・講談社文庫)を読み返してみた。梅棹は国立民族学博物館長当時、球後視神経の炎症で、数日のうちに視力を失った。
視力がおかしいと気づいたのは、ある朝、灯のスイッチをひねると、食卓のうえがパーッと明るくなるのに、その日はあかるくならない。「おかしいな、この電気くらいな」というと、妻は「ちゃんとついているし、そとはとっくにあかるいのに」
加療により右目は0.01から 0.04にはなったが、左目は0.01がやっとでほぼ失明に近かい。そのときのことを次のように書いている。
わたしの世界はくらかった。昼日中でも、すべてがうすずみ色であった。ものの形がみえないわけではないが、なにもかもぼんやりしていて、暗灰色にとけこんでいた。色はほとんどなかった。
わが人生はおわったか、とも思った梅棹はそれでも博物館長としての役割をはたし、著作を出版し、世と大きく関わった。
どん底に突き落とされた人の心の軌跡から、人間のもつ勇気・強靭さ・柔軟さを知ることができた。視力を失った鑑真大和上の木像での表情は美しい。日本の叡智梅棹も、鑑真像と同様の表情に達したに違いない。
白内障手術を契機に、梅棹の書から、光を・色をうしなった世界を感じ、垣間みた。
(日当山温泉東洋医学クリニック)






なぜ、W.ウィリスは明治新政府の医学の主役になれなかったのか?
 -ドイツ医学採用への背景(藪にらみ医学明治維新)論―

日当山温泉東洋医学クリニック 徳留一博

はじめに
今年(2018年)は明治維新150年ということで、鹿児島県は各方面で盛り上がっている。
 医療・医学の分野も明治のはじめの時期に、体制の変化、法律の整備が整備されていった。明治新政府は同時進行で、医学の維新も行った。
医学の明治維新では、他の分野と異なり薩摩がその主流になれなかった。それはなぜか?ならなかったのか?を考えてみた。  幕末薩摩に大きく関わり、明治になり鹿児島医学校を創設した英人医師ウィリアム・ウィリス(以下ウィリスと書く)は当時の鹿児島の医療・公衆衛生に貢献した。鹿児島医学校は鹿児島大学医学部へと繋がっていく。その鹿児島大学病院で医師として訓練された筆者はウィリスに身贔屓する立場で、ドイツ医学採用の過程をみてみた。

明治新政府は近代医学としてドイツ医学を採用したが、明治の初期の一瞬間ともいえる時間にイギリス医学が日本の医学の主役になったことがあった。それは、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争でのウィリスの近代外科手術を用いた負傷者の治療・活躍・貢献によってである。
 「日本近代医学の夜明け・英医ウィリス(佐藤八郎)」にはウィリスの治療実績が次のように記載されている。
・・・小指の除去、大腿骨関節の切断など大小手術38回、23個の銃弾の摘出、200人以上の腐骨切除、鉄の副木の使用など西洋医学の面目を発揮したのである。かくしてウィリスは戦功をたてて、3か月ぶりに帰京した。・・・
このような状況の基、ウィリスは新政府の医学校兼病院の長になり、そしてイギリス医学が日本の近代医学の基になるはずであった。日本医家伝(吉村昭)によると、イギリス医学の採用は決定したと同然で、大久保はウィリスに対して「日本医学総教師」という辞令を発していた。そして同書は次のように続く。
・・・しかし、採用寸前にその前に立ちはだかった医家がいた。それは、佐賀藩徴士相良知安と福井藩士岩佐純で、殊に相良は、激烈な態度でイギリス医学の阻止をはかったのだ。・・・
 結局、イギリス医学は採用されなかった。

ドイツ医学へと推進した相良と岩佐の役は「医学取調御用掛り」であった。相良を推したのは佐賀藩主・鍋島閑叟であり、岩佐を推したのは福井藩主・松平春嶽であった。相良は長崎でボードウィンに、岩佐もポンぺ、ボードウィンに蘭方(当時の近代医学)学んでいる。ともに32歳で若き俊秀であった。

なぜ、西郷・大久保は薩摩の医人を推薦しなかったのだろうか?薩摩に蘭方をおさめた適当な人物がいなかったのだろうか?薩摩にも蘭方医はいた。それは石神良策である。当時47歳であり、相良・岩佐より15歳、年上であった。発展途上(旬)ではなかったということだろうか?
石神は長崎に学び、横浜軍陣病院頭取、東京医学校兼病院の取締を歴任している。兵部省に移り、海軍の医療の基礎を築いた人物である。鹿児島医学校にいた高木兼寛を東京に呼び、イギリス留学へ導いた人物である。相良たちに対して遜色ない。

当時の西郷・大久保は強権を持っていたのに、なぜ譲歩ともいえる態度を示したのだろうか?廟議(閣議)では知学事であった山内容堂、大久保利通は、取調御用掛りとはいえ一介の医師相良に論破されている。
そのとき大久保の胸中を思ってみた。若き蘭方医が薩摩にいないこともあり、ここでは強権を発揮しない方が得策と考えたのではなかろうか。この分野で他藩と覇権争いをするより、土佐や肥前などに任せてもいいと判断した深謀遠慮があったと、推測する。
4 
ウイリスは戦陣のなかで近代医学を使い大きな功績をあげた。前述のウィリスの実績に匹敵するような医療が、敵対する幕府軍でも行われていたのである。鳥羽伏見、戊辰戦争を経験した大久保・西郷はこのことを無視できなかった、と思われる。
「白い航跡(吉村昭)」に次のような場面が描写されている。・・・永田の胸に荒々しくその刃先を食い込ませた。呻き声が永田の口から噴き出したが、関は容赦なく肉を切り裂き、長い鋏状のものをその中に深く突き入れ、それを引きぬくと、先端に球状の光るものがつまれていた。あきらかに弾丸で、細長い皿の上に音を立てて落とされた。兼寛は呆気にとられて、皿の上におかれた血に濡れている弾丸を見つめた。・・・
関とは佐倉順天堂、長崎精得館で学んだ関寛斎であり、兼寛とは薩軍の医師(当時はまだ漢方医)として従軍した高木兼寛である。描写は新政府軍の関寛斎の手技であるが、幕府軍には関のかつての学友が多数活躍していたのである。
多紀家(漢方)が牛耳っていた江戸時代の医政に、多くの医師が密かに蘭方を学び、力をつけていたことは驚くべきことである。
         5
関寛斎のような蘭方を収めたものが、江戸時代末期に多数いた。蘭方は大きな波になっていたのである。それは薩摩が琉球との貿易で富を得、幕府に対抗できるような力をつけていたのと同様なものと思われる。
6 
 シーボルトの来朝は1823年である。外国医学との交流は細々ながらあった。このような動きが幕末の医療に繋がっていく。ポンぺの来日は1857年であり、その後状況は少しずつ変化していった。ボードウィンはポンぺの後任にとして1862年着任している。
ポンぺの長崎養生所(後に精得館)はベッド数120の洋式病院を備えていた。そこに佐倉順天堂、適塾で学んだ若い医師たちが青雲の志をもって集まり、当時の西洋医学を学んでいたのである。医学の歴史(小川鼎三)には次のように記載されている。よろん
・・・ポンぺが帰国の途についた1862年10月15日までの5年間にその指導をうけたものは133人に及んだ。その中には司馬凌海、緒方惟準、橋節斎、戸塚文海、池田謙斉、佐藤尚中、佐々木東洋、岩佐純、長与専斉、橋本綱常、伊藤玄伯、太田雄寧のような、その後の日本医界を指導した人びとがいた。・・・
7、
このような時代の流れを、医学の歴史(小川鼎三)では次のように記載している。・・・医学においてドイツを師とすることは、当時の日本で洋方に志持つ医者たちの輿論であって、相良知安らはそれを代表したものとみることができる。・・・
ドイツ医学採用決定後、相良・岩佐は佐倉から佐藤尚中を東京に招き大学大博士とし、大学東校の最高の位置につかせている(明治2年12月)。これらのことからすると、当時の洋医学を志したものは綿密な連携があったものと思われる。ドイツ医学への流れは加速していたのである。
それに対してウィリスを擁護すべき薩摩の洋医師はいなく、西郷・大久保には何としてでもイギリス医学をという気迫がなかったように思われる。ウィリスは大きな時の流れにのまれたのである。
8、
ドイツ医学採用派の悩みはそのその後のウィリスの処遇であった。多くの書にウィリスの処遇を西郷に依頼したとある。私は廟議で論破されたとき、大久保の胸には、ウィリスの身柄を引き受ける覚悟があったと推測する。それがないと、相良に論破されるはずがない。ウィリスの鹿児島への移動はまた時代の流れであった。破格ともいえる報酬で、ウィリスは鹿児島に赴任した。

相良と岩佐に幸いしたのは、恩師ボードウィンと新政府とのトラブルがあったことである。幕府は海軍を創設し海軍病院を設立する計画をたて、ボードウィンに協力を求めていた。ボードウィンはオランダに帰り依頼された診療道具を買い、日本に送った。そして再び日本に来てみると幕府は崩壊し、医療具は新政府に没収された。ボードウィンの怒りに新政府は困っていた。その状況打開にボードウィンに学んだ相良・岩佐がうかんできたのである。幕府の後始末の一端である。
これがなければ、相良・岩佐の出番はなく、石神良策の登場も十分あり得たと思われる。
10
ドイツ医学採用の遠因は佐倉順天堂、適塾などの私学の勃興であると、私は考える。少なくない若者が私塾で学び、さらに長崎で力をつけ、そしてそれぞれの出身地で診療を行っていたのである。江戸時代の文化がそのような花を咲かせつつあったことも、ドイツ医学採用を大きく推進したと思われる。
おわりに
明治維新政府の医学のトップに立てなかったウィリスの心情を思い、イギリス医学採用を願う立場にたって、ドイツ医学採用への因子,課程をいろいろ思考した
推論推測があり、専門家は眉をひそめるかもしれない。医学の歴史を考えるきっかけにしていただければ幸いである。

付記
①相良治安を考えてみる。その「激情」が語られることが多い。しかしバックに鍋島閑叟がいたのであるが、知力と胆力のある沈着冷静な論客と思う。1~2年前までは他藩の藩主であった山内容堂を論破していくときは、死をも覚悟していたに違いない。ウィリスからすると敵であるが,あっぱれである。ドイツ医学採用へもっていった相良の功績は永久に語り継がれていくだろう。
②一方のウィリスは25歳で極東の日本に来て、幕末から明治という日本の激動の歴史の真っただ中に入り翻弄されていった。医療に加え胆力にも驚嘆する。傑出した人物であり、日本の医学史において不滅の光を放ち続けることだろう。
③私は勉強不足で知らなかったが、江戸後期、関東と関西で私学(私塾)が起っており、明治維新の医学を左右する程の人物を多数輩出していたことである。このような医学の萌芽を許容したのは幕府の業績の一つかもしれない。佐倉順天堂はその後順天堂大学医学部に繋がっていく。明治の医学は順天堂抜きには語れない。
④石神良策については②で述べた。石神がイギリス留学へと導いた高木兼寛は海軍での脚気抑止に対して医史学上不滅の業績をあげた。一方の陸軍は森林太郎(鴎外)を中心とした上層部は高木の成果を無視し、日清・日露戦争で驚異的な多数の脚気死亡者を出した。
高木は鹿児島医学校でウィリスからイギリス医学を学び、加えてイギリス留学へ留学した。高木の業績はその成果である。流れからみると、石神は遠大な計画で高木の脚気研究をもって、ドイツ医学採用という流れに一矢報いたともいえる。
明治維新で小松帯刀が幻の宰相と呼ばれ、近年評価されつつある。それと同様に石神良策は幕末から明治の初期に、東京・鹿児島で活躍した。薩摩の医学・医療の歴史の中で石神良策が評価され、人物像や業績が研究されることを望む。
⑤4,で大久保が強権を持っていたと述べた。明治7年の佐賀の乱のとき、大久保は軍事・行政・司法の全権(臨機処分権)を与えられ、九州に赴いた。佐賀臨時裁判所で審理を行い、江藤を梟首(さらし首)に、幹部11人を斬首した。

参考
1、小川鼎三(1964):医学の歴史、中央公論社、
1、 佐藤八郎(1984):日本近代西洋医学の夜明け 英医W.ウィリス、
3、吉村昭(1973);日本医家伝、講談社、:
4、梶田昭(2003):医学の歴史、講談社:
5.吉村昭(2009);白い航跡、講談社、
6、徳留一博(2230):日本東洋医学会鹿児島県部会学術総会、馬場辰二、高木兼寛、そしてW.ウイリスー鹿児島医学校創設の周辺から医学の明治維新を考えるー



Hinatayama Onsen
Touyouigaku Clinic
日当山温泉クリニック

〒899-5111
鹿児島県霧島市
隼人町姫城3丁目86番地
TEL 0995-43-3111
FAX 0995-43-3242

copyright©2013 Builder Clinic all rights reserved.