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医療法人秋桜会

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_漢方随想

                        

なぜ、W.ウィリスは明治新政府の医学の主役になれなかったのか?
 -ドイツ医学採用への背景(藪にらみ医学明治維新)論―

日当山温泉東洋医学クリニック 徳留一博

はじめに
今年(2018年)は明治維新150年ということで、鹿児島県は各方面で盛り上がっている。
 医療・医学の分野も明治のはじめの時期に、体制の変化、法律の整備が整備されていった。明治新政府は同時進行で、医学の維新も行った。
医学の明治維新では、他の分野と異なり薩摩がその主流になれなかった。それはなぜか?ならなかったのか?を考えてみた。  幕末薩摩に大きく関わり、明治になり鹿児島医学校を創設した英人医師ウィリアム・ウィリス(以下ウィリスと書く)は当時の鹿児島の医療・公衆衛生に貢献した。鹿児島医学校は鹿児島大学医学部へと繋がっていく。その鹿児島大学病院で医師として訓練された筆者はウィリスに身贔屓する立場で、ドイツ医学採用の過程をみてみた。

明治新政府は近代医学としてドイツ医学を採用したが、明治の初期の一瞬間ともいえる時間にイギリス医学が日本の医学の主役になったことがあった。それは、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争でのウィリスの近代外科手術を用いた負傷者の治療・活躍・貢献によってである。
 「日本近代医学の夜明け・英医ウィリス(佐藤八郎)」にはウィリスの治療実績が次のように記載されている。
・・・小指の除去、大腿骨関節の切断など大小手術38回、23個の銃弾の摘出、200人以上の腐骨切除、鉄の副木の使用など西洋医学の面目を発揮したのである。かくしてウィリスは戦功をたてて、3か月ぶりに帰京した。・・・
このような状況の基、ウィリスは新政府の医学校兼病院の長になり、そしてイギリス医学が日本の近代医学の基になるはずであった。日本医家伝(吉村昭)によると、イギリス医学の採用は決定したと同然で、大久保はウィリスに対して「日本医学総教師」という辞令を発していた。そして同書は次のように続く。
・・・しかし、採用寸前にその前に立ちはだかった医家がいた。それは、佐賀藩徴士相良知安と福井藩士岩佐純で、殊に相良は、激烈な態度でイギリス医学の阻止をはかったのだ。・・・
 結局、イギリス医学は採用されなかった。

ドイツ医学へと推進した相良と岩佐の役は「医学取調御用掛り」であった。相良を推したのは佐賀藩主・鍋島閑叟であり、岩佐を推したのは福井藩主・松平春嶽であった。相良は長崎でボードウィンに、岩佐もポンぺ、ボードウィンに蘭方(当時の近代医学)学んでいる。ともに32歳で若き俊秀であった。

なぜ、西郷・大久保は薩摩の医人を推薦しなかったのだろうか?薩摩に蘭方をおさめた適当な人物がいなかったのだろうか?薩摩にも蘭方医はいた。それは石神良策である。当時47歳であり、相良・岩佐より15歳、年上であった。発展途上(旬)ではなかったということだろうか?
石神は長崎に学び、横浜軍陣病院頭取、東京医学校兼病院の取締を歴任している。兵部省に移り、海軍の医療の基礎を築いた人物である。鹿児島医学校にいた高木兼寛を東京に呼び、イギリス留学へ導いた人物である。相良たちに対して遜色ない。

当時の西郷・大久保は強権を持っていたのに、なぜ譲歩ともいえる態度を示したのだろうか?廟議(閣議)では知学事であった山内容堂、大久保利通は、取調御用掛りとはいえ一介の医師相良に論破されている。
そのとき大久保の胸中を思ってみた。若き蘭方医が薩摩にいないこともあり、ここでは強権を発揮しない方が得策と考えたのではなかろうか。この分野で他藩と覇権争いをするより、土佐や肥前などに任せてもいいと判断した深謀遠慮があったと、推測する。
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ウイリスは戦陣のなかで近代医学を使い大きな功績をあげた。前述のウィリスの実績に匹敵するような医療が、敵対する幕府軍でも行われていたのである。鳥羽伏見、戊辰戦争を経験した大久保・西郷はこのことを無視できなかった、と思われる。
「白い航跡(吉村昭)」に次のような場面が描写されている。・・・永田の胸に荒々しくその刃先を食い込ませた。呻き声が永田の口から噴き出したが、関は容赦なく肉を切り裂き、長い鋏状のものをその中に深く突き入れ、それを引きぬくと、先端に球状の光るものがつまれていた。あきらかに弾丸で、細長い皿の上に音を立てて落とされた。兼寛は呆気にとられて、皿の上におかれた血に濡れている弾丸を見つめた。・・・
関とは佐倉順天堂、長崎精得館で学んだ関寛斎であり、兼寛とは薩軍の医師(当時はまだ漢方医)として従軍した高木兼寛である。描写は新政府軍の関寛斎の手技であるが、幕府軍には関のかつての学友が多数活躍していたのである。
多紀家(漢方)が牛耳っていた江戸時代の医政に、多くの医師が密かに蘭方を学び、力をつけていたことは驚くべきことである。
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関寛斎のような蘭方を収めたものが、江戸時代末期に多数いた。蘭方は大きな波になっていたのである。それは薩摩が琉球との貿易で富を得、幕府に対抗できるような力をつけていたのと同様なものと思われる。
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 シーボルトの来朝は1823年である。外国医学との交流は細々ながらあった。このような動きが幕末の医療に繋がっていく。ポンぺの来日は1857年であり、その後状況は少しずつ変化していった。ボードウィンはポンぺの後任にとして1862年着任している。
ポンぺの長崎養生所(後に精得館)はベッド数120の洋式病院を備えていた。そこに佐倉順天堂、適塾で学んだ若い医師たちが青雲の志をもって集まり、当時の西洋医学を学んでいたのである。医学の歴史(小川鼎三)には次のように記載されている。よろん
・・・ポンぺが帰国の途についた1862年10月15日までの5年間にその指導をうけたものは133人に及んだ。その中には司馬凌海、緒方惟準、橋節斎、戸塚文海、池田謙斉、佐藤尚中、佐々木東洋、岩佐純、長与専斉、橋本綱常、伊藤玄伯、太田雄寧のような、その後の日本医界を指導した人びとがいた。・・・
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このような時代の流れを、医学の歴史(小川鼎三)では次のように記載している。・・・医学においてドイツを師とすることは、当時の日本で洋方に志持つ医者たちの輿論であって、相良知安らはそれを代表したものとみることができる。・・・
ドイツ医学採用決定後、相良・岩佐は佐倉から佐藤尚中を東京に招き大学大博士とし、大学東校の最高の位置につかせている(明治2年12月)。これらのことからすると、当時の洋医学を志したものは綿密な連携があったものと思われる。ドイツ医学への流れは加速していたのである。
それに対してウィリスを擁護すべき薩摩の洋医師はいなく、西郷・大久保には何としてでもイギリス医学をという気迫がなかったように思われる。ウィリスは大きな時の流れにのまれたのである。
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ドイツ医学採用派の悩みはそのその後のウィリスの処遇であった。多くの書にウィリスの処遇を西郷に依頼したとある。私は廟議で論破されたとき、大久保の胸には、ウィリスの身柄を引き受ける覚悟があったと推測する。それがないと、相良に論破されるはずがない。ウィリスの鹿児島への移動はまた時代の流れであった。破格ともいえる報酬で、ウィリスは鹿児島に赴任した。

相良と岩佐に幸いしたのは、恩師ボードウィンと新政府とのトラブルがあったことである。幕府は海軍を創設し海軍病院を設立する計画をたて、ボードウィンに協力を求めていた。ボードウィンはオランダに帰り依頼された診療道具を買い、日本に送った。そして再び日本に来てみると幕府は崩壊し、医療具は新政府に没収された。ボードウィンの怒りに新政府は困っていた。その状況打開にボードウィンに学んだ相良・岩佐がうかんできたのである。幕府の後始末の一端である。
これがなければ、相良・岩佐の出番はなく、石神良策の登場も十分あり得たと思われる。
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ドイツ医学採用の遠因は佐倉順天堂、適塾などの私学の勃興であると、私は考える。少なくない若者が私塾で学び、さらに長崎で力をつけ、そしてそれぞれの出身地で診療を行っていたのである。江戸時代の文化がそのような花を咲かせつつあったことも、ドイツ医学採用を大きく推進したと思われる。
おわりに
明治維新政府の医学のトップに立てなかったウィリスの心情を思い、イギリス医学採用を願う立場にたって、ドイツ医学採用への因子,課程をいろいろ思考した
推論推測があり、専門家は眉をひそめるかもしれない。医学の歴史を考えるきっかけにしていただければ幸いである。

付記
①相良治安を考えてみる。その「激情」が語られることが多い。しかしバックに鍋島閑叟がいたのであるが、知力と胆力のある沈着冷静な論客と思う。1~2年前までは他藩の藩主であった山内容堂を論破していくときは、死をも覚悟していたに違いない。ウィリスからすると敵であるが,あっぱれである。ドイツ医学採用へもっていった相良の功績は永久に語り継がれていくだろう。
②一方のウィリスは25歳で極東の日本に来て、幕末から明治という日本の激動の歴史の真っただ中に入り翻弄されていった。医療に加え胆力にも驚嘆する。傑出した人物であり、日本の医学史において不滅の光を放ち続けることだろう。
③私は勉強不足で知らなかったが、江戸後期、関東と関西で私学(私塾)が起っており、明治維新の医学を左右する程の人物を多数輩出していたことである。このような医学の萌芽を許容したのは幕府の業績の一つかもしれない。佐倉順天堂はその後順天堂大学医学部に繋がっていく。明治の医学は順天堂抜きには語れない。
④石神良策については②で述べた。石神がイギリス留学へと導いた高木兼寛は海軍での脚気抑止に対して医史学上不滅の業績をあげた。一方の陸軍は森林太郎(鴎外)を中心とした上層部は高木の成果を無視し、日清・日露戦争で驚異的な多数の脚気死亡者を出した。
高木は鹿児島医学校でウィリスからイギリス医学を学び、加えてイギリス留学へ留学した。高木の業績はその成果である。流れからみると、石神は遠大な計画で高木の脚気研究をもって、ドイツ医学採用という流れに一矢報いたともいえる。
明治維新で小松帯刀が幻の宰相と呼ばれ、近年評価されつつある。それと同様に石神良策は幕末から明治の初期に、東京・鹿児島で活躍した。薩摩の医学・医療の歴史の中で石神良策が評価され、人物像や業績が研究されることを望む。
⑤4,で大久保が強権を持っていたと述べた。明治7年の佐賀の乱のとき、大久保は軍事・行政・司法の全権(臨機処分権)を与えられ、九州に赴いた。佐賀臨時裁判所で審理を行い、江藤を梟首(さらし首)に、幹部11人を斬首した。

参考
1、小川鼎三(1964):医学の歴史、中央公論社、
1、 佐藤八郎(1984):日本近代西洋医学の夜明け 英医W.ウィリス、
3、吉村昭(1973);日本医家伝、講談社、:
4、梶田昭(2003):医学の歴史、講談社:
5.吉村昭(2009);白い航跡、講談社、
6、徳留一博(2230):日本東洋医学会鹿児島県部会学術総会、馬場辰二、高木兼寛、そしてW.ウイリスー鹿児島医学校創設の周辺から医学の明治維新を考えるー



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