体とこころの歳時記
1,いのち、そのはかなさ
橋の上でスマホ撮影中に転落か!
悲しいニュースをテレビで知った。今年の11月初めのある日、関東のある地で起きた出来事である。
父親らと山間部にドライブに行ったのだろうか。鹿をみたいと車から降りた20代の女性の、スマホで撮影中の出来事である。
撮影に夢中になり、橋の欄干に気付かなかったのだろう。橋から4~5メートル転落し死亡したのである。
旅行中の撮影は、景勝地・都市部・海川山などどこでも皆がやることである。考えてみると、どこでもいつでも、
テレビ報道のような危険なことは起こりうることに改めて気付いた。
事故にあった女性の両親の悲しみは想像するだけでも気の毒である。
運命の暗転としか言いようがない。命のはかなさを今更ながらに思う。
読売新聞「四季」でみかけた俳句を思い出した。
午後はやも死んで帰りし夏座敷 飯田龍太
突然の死への驚愕とろうばい、集落の喧騒が聞こえてきそうである。
「四季」の中では解説の長谷川櫂は次のように書いている。「一寸先は闇というとおり、人間は一瞬後の未来はわからない。
この句「七十余歳の老婆蚕室より転落」という簡潔な前書がある。眼前に迫る死が見えないこともある。…」
医師は他の職種よりも死に接することが多い。
医師が生きた時代によって、死への思い、記憶は異なるようだ。命の「はかなさ」を最初に知ったのは、私は小学高学年のときであった。
10歳ちょっとの私の記憶に残っているので、よっぽど衝撃を受けたのかもしれない。
昭和20年代の健康保険制度もない、不衛生な時代の思い出である。私のいとこが六月灯で飲み物を買って飲んだようだ。
六月灯は当時の田舎の唯一と言ってもいいような楽しみのときだ。それを飲んだ夜、下痢嘔吐で一昼夜にして亡くなった。
水を欲しがったようだが、家族が下痢だから、飲むといけないと考え、水を飲ませなかったという。脱水だ!
コレラのような脱水が急激に起ったのである。今なら点滴で死ぬことはなかっただろう。
私は「短い時間での命の展開」と「水を渇望していた」」という記憶が、今でもよく私の脳裏をかすめる。
医師で俳人の藤後左右に、今書いたような状況を詠んだ句がある。
疫痢児の母よ醫(くすし)師(し)は神ならず 藤後左右
昭和10年代の句と思われる。疫痢で死んだ児は十歳前後だっただろうか。
短い命が終ったことを知った母親の慟哭が、その時から80年も経った今も聞こえてくるようで、切ない。
参考
① 藤後左右:熊襲ソング、天街発行所、昭和43年
② 読売新聞「四季」(長谷川櫂)20018.5.16
2,有難う、八代亜紀さん
―同時代を生きる、生きたということー
八代亜紀さん(以下八代亜紀と書く)が亡くなったことを新聞で知った。
死去は2023年12月30日で、急速進行性間質性肺炎が命を縮めたようだ。
訃報を知ったとき、八代亜紀の歌のセリフの断片二つが脳裏にうかんだ。
…文字の乱れは線路の軋み、愛の迷いじゃないですか…(「愛の終着駅」より)
…それじゃさよならと海猫みたいに男がつぶやいた…(「おんな港町」より)
ラジオ・テレビから流れてくる八代亜紀の歌を聞いていただけなのに、
これらのセリフが出てきたのは、無意識のうちに八代亜紀のフアンになっていたようだ。
八代亜紀のデビユーは私自身医師になったころである。
傘寿になった今考えると、フアンというより同時代を生きてきた「人生の同志」という感じを無意識に持っていたのだと思う。
八代亜紀のテレビのステージをみていると、歌唱力に加えて独特の軽やかな体動があった。
この二つに笑顔が加わり、みるもの、聞くものに「この世の憂さ」を晴らしてくれた。
音楽の効果ということに関して、神田橋條治先生は著書の中で「養生のコツ」として、
次のように述べている。
…うつ病になりやすい人の日頃の健康法としては、ナツメロ、演歌などの、一体化や溶け合う、情緒纏綿(てんめん)の世界に浸るのが有益なことが多いようです。…
先生は気分が落ち込んだときの養生法として書かれているが、歌を聞くということはうつ状態だけでなく、その他多くのストレス対策として有効なように思える。
私は心療内科関連の患者さんの診察のとき、演歌などを聞くことを勧めている。演歌だけではなく、ジャズ、映画音楽などかつて聞いたことのある曲で「気持ちのよかったもの」がお勧めだ。
「歌を聞くということ」は病気でなくても活用できるようだ。
新聞で次のような記事を読んだことがある。国際的にも著名な外科医が手術の際、演歌を流されているというものだった。
手術場の雰囲気、名外科医、演歌という組み合わせにびっくりしたが、私は合点した。
その外科医の手術は難易度が高いものと思われる。そこには想像できないほどの緊張があることだろう。
そこに演歌が流れていることは、ラグビーのプレースキックの時の「五郎丸ポーズ」と同様の、その外科医の「ルーチン」と考えられる。
手術場にはどんな演歌が流れていたのだろうか。
一臨床医に過ぎない私も、ルーチンに歌を聞く「時間帯」がある。
それは土曜日か日曜日の半日、CDを流しながら書類(診断書・介護保険・傷病手当など)を書くときである。
どうしてこんなに毎週書類が溜まるのかと思いながら、そのストレスを和らげてくれるのが歌である。
流れてくる歌は、ちあきなおみ、越路吹雪、金子由香里、中島みゆき、小椋佳など「同時代を生きた」「同時代を生きている」歌手たちである。
この1月から八代亜紀がこれに加わった。
補遺1:「同時代を生きる・生きた」ということは、直接会う機会がなくてもその人から多くの影響を受け、共感したものが多かった、ということだろう。
『徒然草』(13段)に出てくる「ひとり燈(とも)火(しび)のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。…」と通じるものがあるように思える。
“引用した部分の大意(奈良岡康作訳注)は、“ただひとり、燈火の下に書物を広げて読み親しみ、それを書いた、見知らぬ昔の世の人を友にすることは格別に慰めとなることである”の意味である。『徒然草』の場合は時空の範囲が広いということになる。
補遺2:八代亜紀の「歌以外」のことを新聞で知った。以下、新聞の記事をそのまま転載する。
「油絵の腕前でも知られ、フランスの絵画公募展「ル・サロン」に98 年から 5年連続で入選。
チャリティーにも熱心に取り組み、東日本大震災では、避難所に故郷・八代特産の畳を自ら届けた。熊本地震でも避難所を慰問した。」
参考
1,神田橋條治:精神科養生のコツ、岩崎学術出版社、1999
2, 奈良岡康作訳注:現代語訳対照徒然草、旺文社文庫、1975
3, 読売新聞 2024,1月10日
3,「春一番」とは春のどんな現象?
「春一番」という言葉は知ったのは鹿児島大学病院にいた頃だから、30歳前後のことだった。
俳句をかじっていたころ、ある新聞紙上で「春一番」という言葉を用いた俳句をみた。季語として使われていたので、新鮮な感じがしたのを覚えている。
その句とは、
春一番若き二人が吹かれ来る
明るい陽光の中、春を感じる風を受けながら、若い二人のデートの情景を思い浮かべた。
このように「春一番」の句を解釈して数十年。ところが数年前から、春一番はその年最初の春の突風であるということを、テレビやでラジオで見聞するようになった。
強風・突風であるならば、身をかがめて構えて歩くような姿になり、とてもデートどころではない。春の突風であるならば、先の句の「吹かれ来る」は、私の解釈・感想とは馴染まなくなってくる。
さらに考えると、句の作者、その句を選んだ選者も同様に誤った解釈をしていたのではないか、と思ってしまう。このような思いは、この春確信に変わった。
それは今年4月のある土曜日、NHKラヂオのサタデイエッセイで、その週のゲストが「春一番」が春の突風であることを最近知り、びっくり仰天したことを述べておられた。これを聞いて、私は嬉しかった。誤ったイメージを感じたのは私だけでなかったからである。
それでは「春一番」はいつごろから季語として使われだしたのだろうか。俳句初心のころ(昭和50年前後)、使っていた『新編歳時記』(水原秋櫻子編)には載っていない。
それに似た季語として、同書に春嵐、春(はる)疾風(はやて)があげられている。これにはには次のような解説がある。
「春は秋と違って台風の来ることは滅多に無いが、それでも低気圧が暴風・暴風雨をもたらすことはよくある。
さしてひどい嵐にはならないのだが、病気某他の事情で気力の弱っている人には、それでさへ身を鞭(むち)うたれるように感ぜられるのである」
この解説がそのまま「春一番」の説明になるようだ。「春嵐」という季語があるのに、なぜ「春一番」が登場したのだろうか。考えてみた。以下は私の考え(想像)である。
① 昭和時代の後半になると、春到来の時期に「嵐」という言葉が馴染まなくなってきた。
② ある地方では春になって最初の強い風を「春一番」と呼んでおり、それが広まった。
「春一番」について「重箱の隅を楊枝でほじくる」ようなことを述べてきた。この思考の過程で思ったことは、時代、生活の変化によって、新しく登場する季語があり、
使われなくなくなっていく季語もあることを知った。また新しく登場した言葉が季語として定着するまでにはながい偃月を要するようだ。
補遺:歳時記からひいた先の解説の中に、次のような健康管理に関する記述があり興味深かった。
「・・・さしてひどい嵐にはならないのだが、病気某他の事情で気力の弱っている人には、それでさへ身を鞭(むち)うたれるように感ぜられるのである」
これは医師であった水原秋櫻子の記載でると思われる。春先の気温の変動する時期の体の管理を易しく説いている。秋櫻子は東京帝国大学医学部出身の産婦人科医である。
またこのころから花粉症が出てくるころでもある。「春一番」を「花粉症の警戒アラート」の一つとしてもいいようだ。
参考
1,水原秋櫻子:新編歳時記、大泉書店、昭和46年
100歳まで働く時代が来る!
今年5月のある日の読売新聞一面に「ニッポン2050,第1部変わる暮らし下」という見出しが目についた。
読むと「2050頃には100歳まで働き、120歳まで余生を楽しむ世の中になっている可能性がある」とあった。
その根拠は、・・・東京大医科学研究所の中西真教授(分子腫瘍学)は2040年をめどに老化細胞を除去する技術の開発に取り組む。
中西教授は21年、ある酵素が老化細胞を生き延びさせていることをつき止めた。
酵素の働きを妨げる薬を使ったマウスの実験では、筋力の回復や臓器の機能改善といった「若返り」効果を確認。人への応用を目指す。・・・
そこまで科学が進んできているのかと思った。考えてみると、人類はこのような思いを繰り返して、現在まできたのではないか。
例えば結核が猛威を振るっていたときはこれを克服できたらと思い、また敗戦後の昭和20年代は国民の貧困が改善したなら寿命が延びるだろうと考えただろう。
これらは科学・政治を背景にしたものである。
一方、落語に「寿命」「死神」などがあり、「人のいのちと死」は昔から庶民を含めて人の関心事であったのだろう。
私は幸いに喜寿を迎えることができた。この記事を読んで、私自身いつのころから「寿命」「死ぬということ」を思い浮かべたかを、振り返ってみた。
私が「死というもの」に初めて遭遇したのは小学校入学前であった。飼っていた兎が死んだのだ。
私の集めてきた草に毒になるものが混じっていたようだ。動かずに固くなっていた。前日まで元気だったのに。
小学1年生の秋(昭和25年)父方の祖父が死んだ。77歳だった。私はこのとき「人間は77歳になると死ぬもの」と思った。
しかしその後注意して観察していると、77歳を前に死ぬ人もいれば、77歳を過ぎても死なない人がいることに気付いた。不思議だった。
小学3~4年生のころ、次のようなことがあった。叔母の家に男の子が生まれた。しかし1年も経たないうちに死んだ。その後また男の子が生まれた。
その子も1年のうちに亡くなった。そしてまた男の子が生まれた。小学生の私はその子も死ぬだろうと思った。しかし今度は数年たっても死ななかった。
なぜ新生児が1年に満たない短い命であったのか。高校時代の日本史の授業で納得がいった。江戸時代の出生届けはその子が1歳を過ぎて届けていたようだ。
1歳を迎えるまでに少なくない命が消えていったことを物語っている。
大学時代に記憶していることは亀井勝一郎の文章(出典は思い出せないが)だ。
「人は高齢になると、この世よりもあの世に、知っている人・友人が多くなる」というものだった。このことは妙に記憶に残っている。
「100歳まで働く時代が来る」という新聞記事を読んで、「いのち・死ぬこと」について、幼いころを中心に思いを馳せてみた。
(日当山温泉東洋医学クリニック)