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医療法人秋桜会

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_院長随想


11、和顔愛語の稲盛和夫さんのスポーツをみる目
 ―この位置を走っていたら勝てないー

 稲盛和夫さんが2022年8月24に死去した。新聞、テレビで業績や人柄が大きく報道された。とてつもなく巨大な人だったようだ。
 報道された中で、小さい記事であったが興味深かいものがあった。それは稲盛さんがスポーツ好きで、サッカーのJ1京都、京セラ陸上部などの発展に尽力されたようだ。以外に思ったことは、京セラ陸上部でソウル五輪に出場した窪田久美(旧姓荒木)さんの「話し」だった。新聞には以下のように書かれていた。
 京都府のゲストハウスに呼ばれた時が印象に残っている。映像でレースを見ながら、稲盛さんに、次のような指摘を受けた。

「この位置を走っていたら勝てない」

専門的な知識がなくても、勝負どころを見極める分析力に驚いたともいう。
 京セラ陸上部には監督、コーチがいたはずだ。画像を見ただけで、陸上競技には素人の稲盛さんが分析とアドバイスをしたのである。稲盛さんの言葉は一瞬にして窪田さんに「位置取りの大切さ」を開眼させたようだ。オリンピック出場の一流選手に対してである。
 日本航空の再建も日本人全員が注目する天下の大勝負だった。その成功も勝負どころを見極める稲盛さんの類まれな分析力によるものだろう。
和顔愛語の稲盛さん、その表情は仏様の顔である。新聞で稲盛さんの意外な面を知った。これは世界規模の人物だった稲盛さんの本質だったように思える。

10、高齢者の時間感覚(1) ながい!
―7分のラジオ体操の時間がながいー
  
約20年間、朝の6時半に夫婦でラジオ体操を続けている。実際に体操をしている時間は約7分だ。最近その7分をながいと感じるようになった。数年前まではそのようなことはなかったので、70代後半という年齢がそう思わせるのか。
 このような時間感覚で、テレビの健康番組や医療の講演会を考えてみた。NHKの「きょうの健康」は15分番組だ。話題がワンポイントで疲れない。クローズアップ現代は30分だ。うまく纏めてあるのでこれ位は頭が疲れない。「チョイス」「トリセツ」は45分だ。このあたりが私の集中力では限界だ。
 医療の講演会となると90分ものが多い。これはながい。学生時代の講義は90分が多かったがながいと感じたことはなかったのに。
コロナ禍になってから講演会もウエブ講演会が多くなった。90分ものがあるが、最近は60分が多くなった。主催者側が聞き手の年齢を考えるようになったのだろうか。
テレビか新聞で知ったことだが、大谷の活躍する野球の大リーグ(アメリカ)でも、試合時間がながくなりすぎているので、投手の投球の間合いの時間(ピッチタイマー)を制限して、試合時間を短くしようという動きがあるようだ。高齢化社会になり大リーグでも、高齢ファンの脳の働き(生理)まで考慮したのかもしれない
それでいて、一方、高齢者は時間があっという間に過ぎていくと感じることも事実だ。
高齢者の時間への感覚は不可解だ。


9、高齢者の時間感覚(2)  短い!
 南蛮煙管月日いよいよ疾くなりぬ 静二

昔鹿児島大学病院に在籍のころ俳句をかじったことがある。俳誌「ざぼん」に属していた。主催者は米谷静二先生(故人)で鹿児島大学文理学部の教授だった。ざぼんは水原秋櫻子の「馬酔木」の系統であった。
 ある日の句会で米谷先生が次の句を出された。
 南蛮煙管月日いよいよ疾くなりぬ。

当時20代だった私はこの句が分からなかった。南蛮煙管は秋にススキの株元付近に花がみられる植物で秋の季語となっている。先生の説明では、このごろ時間が経つのが早い、もう一月過ぎた、もう一年が経ったという感覚である。その頃米谷先生は大学の退官前であったので60歳過ぎの年齢だったと思う。20代の私はそんなものかと思っただけであった。ところが70代後半になった今、米谷先生の感覚が分かるのだ。1年も1か月も1週間も1日も早い。早く終わると感じる。
 子供と大人の時間の感覚についての新聞記事をみたことがある。子供はみるもの聞くものが初めてのことが多く、物事に感動する。大人になるとその感動が薄れる。子供と大人の時間感覚はこの感覚で分れる、ということが書いてあったと記憶している。そういう一面があるだろうが、そんなに単純なものではないだろう。
 睡眠については深く研究されているので、年齢の差による時間感覚の違いも検討されているのかもしれない。
時間を短くもながくも感じることを書いてきた。この感覚は私だけのものではないはずだ。私たち臨床医は診察の際、高齢者はこのような時間感覚にあることを知っていると、なにか診療上のヒントを得られるかもしれない。



8、エリザベス女王、虹をもって別れ
 
―女王に学ぶ生き方―
     姶良地区  徳留一博

2022年9 月8日イギリスのエリザベス女王(以下女王と書く)が死去した。このニュースを聞いたとき、なにか大事なもの、安心を失った感じがした。
女王が亡くなった日ロンドンの上空に「二重の虹」が架かったことをインターネットで知った。女王が虹を以て世界の人々と地球に別れを告げたのだと思った。大自然の出来事ではあるが、偶然でもこんなにも美しいことが起ったのである。女王ならこんなことを起こしそうだとも思った。
 このニュースに接したとき次の句を思い出していた。

虹の環を以て地上のものかこむ 誓子

筆者の住む霧島市の城山公園にある山口誓子の句碑の俳句である。この公園は櫻島と錦江湾を見下ろす景勝の地で、虹が出たら壮大に地上のもの囲むという感じを与える場である。
この句の作者を女王としても何の違和感がない。女王が命尽きるとき、去っていかなければならない地球とそこに住む人々を抱きしめた、としてもおかしくない。それほど女王の生涯は地球と世界中の人々を囲むような、安心を与える存在であったように思う。
新聞には女王の語録が多く紹介されていた。その中に女王の生き方を示す次のような言葉があった。この言葉は私たちにも生きるうえでのヒントと勇気を与えてくれる。

私の人生は長くても短くても、私はみなさんと帝国という家族への奉仕に自分の人生をささげることを宣言します。(1947年4月)

この語録を大きく解釈すると、与えられた場で全力を尽くしなさい、といわれているような気がする。例えば職業、学校も場であり、そこでは嫌なこと、困難なことが起るだろうけど、その場で努力してみたら、という助言とも受けとれる。適応障害などストレスに悩む患者さん方に元気を出させる言葉とも捉えられる。
また新聞には女王の若いときを含めて多くの写真も掲載された。眺めていると、しっかり者で少し茶目っ気のある姉貴という感じだ。
ロシアのウクライナ侵略、中国のなりふり構わない覇権主義、北朝鮮の狂気のミサイル発射など、世界は渾沌としてきた。このような時代、女王には元気でいてほしかった。
(日当山温泉東洋医学クリニック)

 


7、紫は春の色

あかねさす紫野行き標(しめ)野(の)行き野守は見ずや君が袖振る 
額田王(ぬかたのおおきみ)  

春が来たことを今年は診察室で知った。知るというより、体で感じたのである。3月上旬のある日、20代の女性の患者さん(Aさん)がうす紫のセーターを着けて診察室に入ってきた。その紫の色をみたとき春が来たことを知り、体中に滲んでくるような喜びを感じた。
冬、冷え性の私は診察の時いつも「貼らないタイプの使い捨てカイロ」をズボンに忍ばせている。脈診や腹診のとき、患者さんを「冷っ」とさせないためである。高齢になってきて寒さに怖さを感じるようになっていたので、「春よ早く来い」と体が切望していたのだろう。「紫色」が私の体の細胞に春を感じさせたのだ。
万葉集の時代も「紫」は春の色だったようだ。次の歌を思いだした。万葉初期の額田王の歌である。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる

あかねさすは紫の枕詞である。「紫草」の生えた野を背景にした相聞(そうもん)歌で、袖振るは愛情をあらわすときのしぐさである。春の野を背景にした恋の歌ではあるが、万葉の時代の冬の寒さにも思いを馳せると、一層春がきた喜びが伝わってくるようだ。その時代は薪か炭火で暖を取って冬の寒さをしのいでいたことだろうから、春の暖かさを待つ気持ちは切なるものがあっただろう。そのような心情のとき、紫草の紫の色調は万葉の人の体に鮮やかに沁みこんでいったことと思う。

補遺:季節の変化の感じ方は年齢・体力などによって様々であることを知った。若い人には分らない高齢者の冬があるようだ。冬は脳梗塞や心筋梗塞など体の病気を起こしやすいが、心細さ・気分の落ち込みなど心にも大きな影響を与えている。このように冬は体も心も傷めつけているということを、診療・看護・介護にたずさわる人は頭に入れておきたい。
高村光太郎の「冬が来た(道程)」では「きりきりともみ込むような冬が来た」「刃物のような冬が来た」という表現が出てくる。冬のもつ厳しさが伝わってくるようだ。



6、気象病から知るヒト(人)の感覚
 ―気圧は昨夜よりまだ重かった(岡本かの子)― 
 

この数年気象病という言葉をよく聞くようになった。頭痛が天気の崩れの予報代わりになる人、沖縄の南に台風が発生したころから体調不調になるなど、気象病の一つだ。
原因には自律神経、耳の三半規管の異常などが絡みあっているようだ。NHKの「クローズアップ現代」でも気象病を取り上げ気圧の変化に微気圧という繊細な変化も関係していると報じていた。
 診療の際、気象に敏感な人は病的だと、私は今まで考えていた。一方気象に影響を受けない人たちは健康で正常なのだろうか?
 このように思うようになったのは岡本かの子の小説「渾沌(こんとん)未分(みぶん)」(昭和11年)を読んでからである。その中には「気圧が重い」という表現が出てくる。以下はその場面である。
・・・小初は眠れなかった。急に重くなって来た気圧で息苦しく、むし暑く、寝返りばかりうっていたせいでもあるが、とてもじっとしていられない悲しい精力が眠気を内部からしきりに小突き覚ました。・・・
・・・小初は朝早く眼さめた。空は黄色く濁っていて、気圧は昨夜よりまだ重かった。寝巻一重の肌はうすら冷たい「秋が早く来すぎたかしらん」・・・
 小初は水泳の教師でごく普通の若い女性である。普通の人が「気圧が重い」と感じているのである。状況からみると天気が崩れていく時の変化が「気圧が重い」という感じだ。岡本かの子は明治生まれであり渾沌未分の発表は昭和11年である。明治から昭和初期の人たちは、気圧が重いという感覚を持っていたということになる。「気圧が重い」の表現を70代後半になった私は聞いたこともないので、おそらく現代人はその感覚を失ったのだろう。
 ヒト(人)が数万年の洞穴生活をおくっていたときは、暗くなったら寝て明るくなったら起きて食を探していた。そのころ天気の変化を知るには個々人の五感と経験だけであったろう。五感で鋭敏に気象の変化を知ることは生きていくために必要なことだったと思う。それから数万年、江戸時代には夜に灯りがともり、明治になったら安定的に夜の電灯は確保されるようになった。この間ヒト(人)は多くの便利さを獲得したが逆に数えきれないような鋭敏な感覚を失ってきただろうと思う。
 このようなことを考えていたら、気象病の人は洞穴生活時代の感知能力が残っているともいえそうだ。逆に気象の影響を大きく受けない人は先祖と比べ感覚が鈍くなっているともいえる。
気象病を診療する場合、患者さんを原始感覚の残存という側面からみるという視点もあってもよさそうだ。



5、葬式の準備をしておくように、といわれた患者の回復の経験
   -蜜煎導による起死回生の経験-
          姶良地区  徳留一博

 
「蜜煎導」という蜂蜜を使った座薬が傷寒論に載っている。
三十数年前にこの座薬を使用して、貴重な治験をした。
私だけの記憶にしておくのは勿体ない。
しかし、カルテを処分してあるので、記憶を頼りにしての記載になるが、患者の臨床経過は事実である。
ある年、輝北町(私の出身地)の親戚の一人から連絡を受けた。
かねてから高血圧症で治療を受けていた母親(83歳)が意識不明で臥床している。
近医の往診での診断は脳卒中で、もう駄目だから、葬式の準備をしておくようにいわれた。ところが数日過ぎても、意識不明が続いているので、なんとかならないか、という切実な相談であった。
専門外のことで困惑したが、ともかく診察をしましょうということになった。
丁度その日鹿屋市で講演をすることになっていたので、早く出発して患家を訪問した。患家にはおばあちゃんが死ぬということで、多くの親族がつめかけていた。
部屋に入ると、小柄な老女性(以下Aさんと書く)が布団の上に横たわっている。
ちらっとみたとき、衰弱はしているが、Aさんには死にゆく雰囲気がなかった〈望診〉。一通りの神経学的検査(つねることも含めて)をした。
診察中も顔をしかめるなどの反応はなかった。
所見の詳細は記憶していないが、それでも患者の雰囲気から察して、助かると直感した。既往歴を詳細に聞いても糖尿病はないようだ。
講演に向かう途中で、治療の道具(点滴など)は持参していかなかった。
そこで頭に浮かんだのが「蜜煎導」であった。
蜜煎導とは蜂蜜でつくる座薬である。
早速患者の家族と蜂蜜座薬をつくることにした。
蜂蜜をとろ火で温め水分をとばし、きつね色になったところで、小指くらいの棒状の塊(座薬)にした。
この塊を10個つくって、冷蔵庫で冷やし保存した。そのうちの1個を、Aさんの肛門に入れることを実地指導した。
それから私は家族に告げた。意識を取り戻すかもしれない。
そのために今日のうち、あと数個座薬を肛門に挿入するよう指示した。
脳の病気はたしかにあるだろうが、今は食事も水分も数日とっていないので、脱水と栄養対策が大事だと。
翌日か翌々日、Aさんは意識を取り戻し、その後私のクリニックに入院した(救急車搬送)。当時は隼人町に脳の画像検査ができる施設がなく、隣の加治木町で検査をうけた。意識不明と相関する病変があったが、その後Aさんは1年生存した。
どうしてこのようなことが起ったのだろうか?私は蜜煎導のカロリーが役立ったものと考えていた。
しかし小指頭大の大きさの蜂蜜のカロリーは、数個であっても微量なものである。脱水の改善も考えたが、大きな影響はないと思われる。
他に考えられることは蜂蜜座薬の直腸への繰り返す刺激が功を奏したのだろうか。
また蜂蜜が直腸・大腸から直接吸収されるので、脳に微妙な影響を与えたのかもしれない。
本稿で強調したいことは、本症例の経過に加えて、蜂蜜座薬(蜜煎導)が徒手空拳のときの救急薬として役立ったことである。
漢方はこのように改善のためのしぶとさとしたたかさを持っている。
これらのことは在宅訪問診療などのプライマリーケア実践のとき、大いに応用できること示している。
       

補遺:蜜煎導の簡単な紹介
風邪やインフルエンザなどの感染症が初期治療(発汗療法)で改善せず、病が体の中に入っていくとき、弛張熱が続く状態になる(陽明病)。このようなときは発汗で体の中は脱水になり、便秘になっていく。そんなときは大承気湯、麻子仁丸などを使用する。一方、蜜煎導は脱水が関与しない便秘のとき使用すると書かれている。したがって蜜煎導は発汗がひどくないときに使用できる。したがって在宅往診での高齢者、寝たきり高齢者の便秘治療に有用と考える。


4、アベベ・ビキラ選手(1964東京五輪マラソン優勝)の栄光と運命の暗転

―前向きな気持ちの持主アベベの行動ー


―事実を知って、私の最初の反応は“生きていることは幸せだ”ということだった。事の始めからすべての現実を徹底的に受けいれることにした。― 
 
人の一生には予想もしなかった災難や理不尽なことが誰にも起りうる。一生のうちでは腫瘍や難治性の病気と診断されるなどもこともある。コロナ感染も災難の一つである。
栄光のマラソン選手アベベ・ビキラ(1932~1973・以下アベベと書く)にもその後に過酷な運命が待っていた。
東京五輪(1964)でアべべは圧倒的な強さで優勝した。アベベはエチオピア人で皇帝直属の親衛隊に属する軍人であった。東京の4年前のローマ五輪でも優勝したので、マラソン2連覇ということになる。アベベの凄いところはローマ五輪の6か月前からマラソンの練習をはじめ優勝をさらったのである。記録は当時の世界最高記録であった。驚いたことには裸足で石畳みのアッピア街道を含む難コースを走りきり「裸足の英雄」と呼ばれた。
アベベは東京で優勝した5年後交通事故にあい、運命は暗転した。事故はエチオピアの砂漠の道路で起り、対向車のライトに目がくらんだのだった。車は溝に落ち込み、発見されたのは翌朝で、第7頸椎損傷の全身まひになっていた。発見された時のアベベは手指も動かなかった。
アべべは直ちに皇帝の命令によりリハビリで有名なロンドンのストーク・マンデル病院に空路で運ばれた。リハビリによって動けなかった体が、すわることができるし、手を自由に動かして車いす動かすことができるようになった。このようなリハビリ中のアベベを取材した新聞記事を私は保管していた。
本文の冒頭の言葉はこの記事の一部で、発見され全身麻痺を知ったときのアベベの心情である。記事は次のように続いていた。

・・・将来のことは神の手にある。だれでも明日死ぬかもしれない。だが私は完全になおすために努力する。できるかどうか、それはだれにもわからないのだが・・・ 

アベベのマラソンでの功績とリハビリの成果は感動的である。これらは、置かれた立場・状況に、アベベは「無理だ、不可能だ」と考えずに、「前向き」に行動したことからもたらされたものである。五輪6か月前にマラソン出場を命令されても、交通事故後の麻痺でも現実を徹底的に受けいれている。機に臨んで変に応ずという「臨機応変」の精神だ。
このようなアベベの気持ちで臨むと、困難なこと、強いストレスに直面したとき、上手にストレスと向き合えるような気がする。
アベベは事故から5年後(1973)41歳で早世した。

参考:車イスのアベベ 朝日新聞1969.11.20


3、足は手以前の「第2の脳」
       ―情緒表出の場としての足ー

     姶良地区内科医会  徳留一博

 映画「後妻業の女」をみて、足は見事に人間の感情を表すということを知った。
 現在65歳以上の人暮らしは600万人。男は5人に一人、女は2人に一人が独身という。このような世相を背景に、結婚相談所で効率よく相手を見立て、資産を狙って結婚詐欺を働くのが後妻業の女である。巧みな工作で殺人まで進むこともある。現実に数年前京都府下で事件が起こっている。
 映画では、主役の女(大竹しのぶ)が男に呼び出され、指示された場所に向かう場面がある。遠景で表情は分からないが、怒りを足に叩きつけるように歩く姿が描き出される。怒っているとしかいえない歩きかた(足の所作)である。大竹は、無頼な女性を怒らせたときの動作を見事に足で演じたのである。映画自体は面白おかしく展開して終わったが、私にはこの場面が記憶に残っている。
 このような足の動きを感情表出の場と捉えると、診断に使えると思った。手は第2の脳といわれるが、足もまた第2の脳であるといえそうだ。
 足が伝えるのは非言語の感情の動きである。足は手のように細かな所作ができないので、足の感情表現は歩き方が主になるようだ。
あらためて歩き方を感情表出という観点から考えてみる。足音の強弱,高低は感情だけでなく、体力の虚実も判断できそうだ。足音の高低で天候の影響も分かりそうだ。足の運びは敏捷さを示すが、品位も示すようだ。ファッションモデルの動きがそうである。考えていくと、尽きない。
 歩き方以外でも表現はできるようだ。地団太踏むも一例である。
また怒り以外の表現もある。喜びの場合、歓喜のときがよく感情が出ると思われる。私が研修医時代のころ、花見の際の2歳の長男の動きを俳句にしたことがある。
 花吹雪叫びて吾子の脚躍る 
考えてみると、大人は喜びをそれほど足では表現しないようだ。幼児の脚の動きでの感情表出はしばしばみかける。それは手で巧緻な所作ができないからだろうか?言葉で十分に表現ができないからだろうか?
幼児が喜びを足で表出するのは、脳の発育・発達の未熟な段階のものではないだろうか。最も原始なヒトの脳の働きのようにも思える。その根拠は、ヒトの脳は12歳で大人の脳の大きさになるということ、である。
歩き方については以前から思っていたことがある。妻の歩き方は妻の弟に似ている。そう思って観察していたら、母親にも似ていた。考えてみると当然なことである。1歳児の動きの模範は100パーセント両親だろう。歩きも両親の歩きを見様見真似で修練(無意識)し獲得していくものと思える。そうであると、人の歩き方には少なくとも数代前の先祖の動きも宿っているともいえそうだ。
 このような足の動きを診療の場で生かせないだろうか。神田橋條治先生は臨床の場で足の動きをも注目されている(治療のこころ・巻四)。先生は待合室の患者さんを自ら呼びに行かれるようだ。そのときの描写が次のように記載されている。
 “ボクが名前を呼んで、その人が立ち上がる動作なんだよね。椅子から立ち上がる動作の中に、その人の心身のコンデイション、あるいは情緒の状態がいちばんよくあらわれている。”
 神田橋先生は精神科だが、内科外来でも先生の洞察は生かせそうだ。認知症患者さんの日々の状態把握に使えそうだ。
乳幼児とは逆に衰えていく脳では、手の巧緻な表現・言葉による表現が出来なくなる。そのとき脳が足を使って、情緒の表出を行うのではなかろうか。認知症患者さんの足は喜・怒・憂・思・悲・驚をどのような動きで表すだろうか?
女優大竹しのぶの足での表現が見事だったので、足の動きについて考えてみた。役者の好演技が、診療の場で足の動きが参考になることを教えてくれた。



2、子から母への粋なプレゼント
 -誕生日はその母の母難日である―
 ―母おもふ山幸多き四月かなー
 
姶良地区   徳留一博―
 
近くに住む子供の一人は9月が誕生月である。誕生日のその日、息子が母親(私の妻)へ2個のショートケーキを持ってきたようだ。夕方帰宅したら卓上にケーキが置かれていた。
「母難日」が分ってくれたのだ!粋なプレゼントである。
私は3人の子供に各々の誕生日は母親の「母難日」であることを、かねてから語っていた。
十数年姶良地区医師会館で、生涯教育の一環として僧侶を講師として招いた講演会があった。そのとき記憶したのが「母難日」という言葉で、妙に合点がいった。「母難日」とは母親が最も苦労した困難の日である、という意だ。
人の誕日は母親がミクロの状態から3キロ前後の胎児に育て、体外(この世)に送り出す日である。感動的なことではあるが、数時間の陣痛をはじめとして、大変な作業である。
胎児は母が摂取した食事で育っていく。妊娠中はつわりをはじめいろいろなことが起る。妊婦の体は一日一日変化していく、たとえば心拍出量と循環血液量の増加は妊娠28週には通常の150%に増加するという。新しい生命を生み出すことは、このように容易なことではない。それを母親の体一つで育てているのだ。
誕生日は母親が肉体的に精神的に努力した10か月の総決算の日(母難日)である。生命の誕生(出産)は単に生まれたのではない、母親の10か月の努力の結晶だと、僧侶は講演で私たちを諭されたのだ。
この講演の後から、誕生日は母親への感謝の日であり、思いを馳せる日であると思うようになった。母親が亡くなった人にとっては母を偲ぶ日である。                          
医師になりたてのころ、俳句をかじった。4月母からワラビや春の野菜が届いたとき、単純ではあるが素直に次の句ができた。
母よりの山幸多き四月かな
母がいたときは過ぎた。この句は次のようになった。
母おもふ山幸多き四月かな
毎年四月はこの句を舌上に転がして過ごしている。

追記;大学時代の下宿のおばさんの言葉を思い出す。明治の末の生まれの方で5人の母親であった。出産のとき大出血などで、自らの死亡があるかもしれないので、身辺を片付けて出産に臨んだ、という。時代・衛生事情から考えると事実だった、と思う。
    (日当山温泉東洋医学クリニック)


1、白内障の手術を受けて
           徳留一博
 
令和1年の6月、白内障の手術を受けた。この6月は美智子上皇后が白内障手術を受けられ話題になり、山形の眼科クリニック院長の女性医師が殺害された月でもあった。
白内障は以前から指摘されてはいた。その対策として八味地黄丸を数年内服していたので、腎虚の一環としての白内障の進行も阻止できると思っていた。それなのに手術止むなしとなってしまった。相撲でいうとうっちゃりも出来す、寄り切られてしまった感じである。何に寄り切られたのだろうか?加齢(時間)としかいいようがない。
私のクリニックでも多くの患者さんが白内障手術を受けている。その中には、部屋の隅のほこりまでみえるようになった、皴までみえて困った、などの言葉を聞くことが多い。私もそのようなことを期待していたが、そこまではいかなかった。字をみて疲れない、よく出ていた涙が出なくなった、などの症状が消えた。
困った症状は消えたが、みえ方がどうもしっくりしない。二つの世界に住んでいる感じだ。夜の運転のとき対向車のライトが幼児の描いた日光のように派手に光を放つ。そのような感覚が昼間もあるのだ。ものがその感覚であらわれ、コンマ何秒かのあと、現実の世界があらわれるのである。
白内障手術を受けようと思ったとき、「夜はまだあけぬか」(梅棹忠夫著・講談社文庫)を読み返してみた。梅棹は国立民族学博物館長当時、球後視神経の炎症で、数日のうちに視力を失った。
視力がおかしいと気づいたのは、ある朝、灯のスイッチをひねると、食卓のうえがパーッと明るくなるのに、その日はあかるくならない。「おかしいな、この電気くらいな」というと、妻は「ちゃんとついているし、そとはとっくにあかるいのに」
加療により右目は0.01から 0.04にはなったが、左目は0.01がやっとでほぼ失明に近かい。そのときのことを次のように書いている。
わたしの世界はくらかった。昼日中でも、すべてがうすずみ色であった。ものの形がみえないわけではないが、なにもかもぼんやりしていて、暗灰色にとけこんでいた。色はほとんどなかった。
わが人生はおわったか、とも思った梅棹はそれでも博物館長としての役割をはたし、著作を出版し、世と大きく関わった。
どん底に突き落とされた人の心の軌跡から、人間のもつ勇気・強靭さ・柔軟さを知ることができた。視力を失った鑑真大和上の木像での表情は美しい。日本の叡智梅棹も、鑑真像と同様の表情に達したに違いない。
白内障手術を契機に、梅棹の書から、光を・色をうしなった世界を感じ、垣間みた。
(日当山温泉東洋医学クリニック)




Hinatayama Onsen
Touyouigaku Clinic
日当山温泉クリニック

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