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医療法人秋桜会

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_コラムcolumn

(院長随筆 馬場辰二コーナー

                          

和田啓十郎宛入門請願の馬場辰二書簡、現存の軌跡

はじめに
私の住む霧島市で漢方とゆかりのある有名人は馬場辰二先生である。馬場先生は和田啓十郎先生宛の書簡でも知られている。
私は縁あって、和田先生のお孫様の和田耀子様から数回にわたってお手紙をいだいたことがある。その書面によって大正初期の馬場書簡が現在まで保管されている所以を知った。
お手紙で知った事実を鹿児島県医師会報に書いた。しかし最近になって、その保存の経緯は「秘話」ともいうべきもので、漢方を学ぶ先生方に知って欲しいと思うようになった。このような心情のもと、
医師会報の文章をここに転載する。


戦乱をくぐりぬけた手紙
  -和田啓十郎先生宛入門請願の馬場辰二書簡について-


漢方入門のころから、一度は接してみたいと思っていた手紙があった。
それは吉田茂元首相など多くの政財界人の主治医で。“赤坂の馬場”として全国に名を馳せた馬場辰二先生の、和田啓十郎先生あての入門請願の手紙である。
 馬場先生は大正四年東京帝大を恩賜の銀時計で卒業して二年後、「医界之鉄椎」の著者和田啓十郎先生へ熱情的な手紙を送った。この書簡は毛筆で書かれ約二m七十cmにおよぶ長さであり、気賀林一氏が「漢方の臨床」で寺師睦宗先生が著書に、書簡に接したときの感動を書いている。
 「医界之鉄椎」は明治四十四年、明治新政府になってから、医学として認められなくなった漢方の優秀性をのべ、漢方医学の復興を説いた名著である。
 馬場辰二先生は国分市の出身であるが、鹿児島県の医療と直接の関係がなかったためか、本県ではそれほど知られていない。
この秋、日本東洋医学会九州支部会の鹿児島開催を機に、私たち準備委員会は郷土の先哲の発掘の意味を含めて、馬場辰二先生の特別展示を企画した。それはこの機会を逸すると、資料の収集が永久に困難になると感じたからである。
 資料は鹿児島県にはほぼ皆無で、その収集はなかなか困難であった。しかし幸いにも矢数道明先生のお世話で、千葉県安房郡在住の和田啓十郎先生のお孫さんの和田耀子様から書簡のコピーをお借りできた。そのときの感動はまた別の機会に述べることにして、耀子さんの手紙で知った、馬場書簡が現代まで生き延び保管されてきた感動的ないきさつについて述べてみたい。
 太平洋戦争末期のころ、和田啓十郎先生の子息和田正系先生(戦後日本東洋医学会会長、故人)が空襲に備え、馬場先生の書簡など重要なものを裏庭の防空壕の中に大切に保管していた。ところが、ある夜台風が襲来、雨水が浸水。書簡は助かったが、ほかの多くのものは黄色のしみがついたりして哀れなようすであったという。
 そして、さらに戦争末期。その時損なわれなかったものを信州に疎開させることになった。当時、荷物として小包や貨車で送ったもののいくつかは行方不明になるのが実情だった。そこで途中が危いということで、正系先生と耀子さんはこれらの重要なものを二組に分け、油紙につつんでリュックの底に入れ背負って運びだすことになった。当時女学生だった耀子さんは「なんでこのような古い手紙など大切に運ばなければならないのだろう?もっと大切なものはいくらもあるのに」と不思議な感じがしたという。
 ところがその信州への途中、埼玉県川口の長い鉄橋上で空襲、機銃掃射を受けたのである。眼下の薄黒い川水が機銃掃射の光に照らされ、耀子さんとご両親は三人手をとりあい、今は限りと覚悟されたという。
 そして終戦。書簡は再び東京へ、さらに東京から千葉県安房郡へと移動し、正系先生なき後は耀子さんが今日まで保管されてきたのである。
 このような、生きるのが精一杯だった激動の世を、書簡を守ってきた和田家の心意気と漢方医学への愛情を知ったとき、私はしばらくぼう然としていた。
 昭和三十二年に他界された馬場先生の資料は、わずかに三十四年経過した現在でも、もうほとんどなくなり、今回の調査ではご遺族の消息もつかめなかった。しかし、大正六年の書簡は生きのび、漢方を本格的に学ぼうとする人たちにそれぞれの感動を与えているのである。
 書物のうえで眺める歴史上の写真や絵画、彫刻など、今まで漫然と眺めてきたが、多くのものが焼かれ、壊されていったなかで、これらのものは戦乱を生き延び、風雪にたえたものであるということを知り、私はたくましさといとおしさを感じるようになった。そしてまた、このような写真、絵画などの背景に、これらのものを支えてきた人々とその時代を実感するようになった。(漢方研究、2016/8)

参考
1、 寺師睦宗(1976):漢方の診かた治しかた、福村出版、東京、245〜251
2、気賀林一:漢方の臨床、第1巻第2号、昭和29、10
3、和田燿子:私信、平成3年8月
4、矢数道明:私信、平成3年7月
5、鹿児島県医師会報、平成4年1月




“赤坂の馬場”、宰相吉田茂を動かす!
―国分への陸上自衛隊移駐に関する逸話一


“赤坂の馬場”、宰相吉田茂を動かす!
―国分への陸上自衛隊移駐に関する逸話一

「赤坂の馬場」とは霧島市国分出身で、漢方分野では今でも著名な馬場辰二(1888~1958)である。
馬場先生は加治木中、七高から東京帝大医学部という経歴で、大正3年東大を首席の銀時計で卒業されたという。銀時計で東大を出るということは、大学教授を約束されたようなものであったらしい。しかし、先生は終始一貫市井の開業医として終わり、学位もとらなかったようだ。
一介の開業医であったが、近衛文麿、吉田茂など皇室や政財界の大物のかかりつけ医でもあった。
 先生の活躍の場は東京であったので、鹿児島県との関わりは乏しい。ただ国分発展の礎の一つである国分自衛隊駐屯に関しては一肌脱いだようだ。それに関しての逸話がある。 
かつての国分市役所には「馬場先生が吉田首相に診断書と引き替えに判をおさせた」という話が、伝説風に語りつがれていた。
国分自衛隊は1955年(昭和30年)、鹿屋市から移駐している。伝説はその移駐決定に伴うものである。
私はひょんなことからこの伝説の真実に迫ることができた。それは「漢方」が接点であった。
平成3年の日本東洋医学会九州支部学術総会は鹿児島市で行われ、私たち準備委員は郷土の先達として馬場先生の記念展を開くことにした。馬場先生に関する資料は没後30年を経過していたので、今資料を収集しておかないと、散逸の恐れがあったからである。
 地元からの収集の過程で、自衛隊移駐に関する興味あることをつかんだ。私は資料をみながら、馬場先生に関する伝説は事実であったと確信するようになった。
 移駐当時の市助役であった濱田謹乃助氏(歯科医)から多くのことを聞くことができた。以下はその要約である。
 ・・・自衛隊移駐の誘致合戦は熾烈であった。移転先に名告をあげたのが鹿児島市,出水市、国分市であり、鹿児島市は名市長といわれた勝目市長が迫水久常氏(参議院議員)と連繋しながらことを有利に進めていた。一方国分市も石塚彦一市長を先頭に運動を展開していたが、なかなか決定に至らなかった。そこで、馬場先生と吉田首相との間に直談判が行われ、国分移駐が決定した、という
 後年浜田尚友国分市市議会議長の母堂の葬儀の時、迫水久常が友人代表として挨拶のため参列された。そのとき迫水の秘書が、私に「自衛隊誘致では国分市はいけなことをしゃしたか」と問うたのである・・・ この質問から、「移駐の決定」ではどんでん返しがあったか、一夜のうちに形勢が逆転したことが推測される。
 私の手元に石塚市長の子息の石塚賢太郎医師から入手した写真がある。
自衛隊誘致対策会(昭和29.11.18,赤坂)とメモされ、馬場先生、石塚市長,浜田議長らが写っている。
(鹿児島県医師会報、)



馬場辰二と和田啓十郎の“面談”
―和田啓十郎宛入門請願の馬場書簡を基にして―


馬場辰二(霧島市出身)の和田啓十郎宛入門請願書簡のコピーを、私は保有している。それは第17回日本東洋医学会九州支部学術総会(平成3年)での特別展示準備の過程で、和田燿子様より頂いたものである。
馬場辰二・和田啓十郎の面会は実現したのだろうか?「醫界乃鐵椎」に接したときの馬場の感動と入門を願う心情を、書簡からみていき、そして「面談」の成就の有無にふれたい。
 以下、・・・書簡の文・・・、で記載し、その次に筆者の感想を述べる。本文に関連のある処のみを抜粋しているので、ここに記載している文は、書簡の一部である。

・・・拝啓 未だ一面識の榮をも有せず候へども此度貴下の著述醫界の鐡椎を讀みて感慨無量一々肺肝を刺す敢えて拙筆を省みず一書を認め衷情を訴えんとす幸に諒とせられよ・・・
「醫界乃鐡椎」にふれたときの感動が尋常なものでなかったことが、この文から分かる。
・・・小生事年来漢醫方に非常の長所ある事を悟り他日若し志を得ば何卒斯の道を極めんものと希望致し居候が・・・
 漢方を「漢醫方」と表現し、「長所のあることを悟り」から漢方への強い関心を示している。そして大学卒業後数年でありながら、この方面の知識が高かったことを示している
・・・我が良心に問へば思はず赤面さざるを得ず我に何等の自信ありや現代醫術に何等の権威ありや當今の所謂學者研究家なる者果たして何事をなしつゝあるや博士号の増加と患者治癒の数率とは並行の進行をなしつつあるや・・・
 当時の西洋医学に満足していない気持ちを表している。
・・・然りと雖も小生は全く現代醫學を呪ふ者には非ず其実験を基礎とする系統的分析的の着実なる態度は大に学ぶべしと雖も一面に於ては枝葉に走りて或る大綱を失せるの感あり殊に其れ臨床治療の直接的検索に於ては大に閑却されたるの感なくんばあらず・・・
 現代医学(当時)への感想とその欠点について述べている。
・・・適ゝ貴下の著書に接するの機曾を得熟読玩味致候に小生が言はんと欲して言ふ能わざる所は盡く述へて書中に在り斯くも在らんと想像せし神妙の技は此の書の由て明かに其の存在を信せしむるに至れり小生は未だ斯くの如く曾心腹底に徹するの書を讀みたることを記憶せず且つは書中見るが如き現代医学家の反撥に対する説明を具体的に与ふるの日来らば益々医界否人類の幸福ならんかと想はれ候へば・・・
 醫界乃鐡椎への感想が詳しく述べられている。日ごろの自分の思いが書中に展開されていることへの感動が分る。
・・・一度高風に接すを得ば幸何者か之に如かん故を以て茲に無礼を顧みず愚見の概要と希望を述べ日を期して高門を叩かんと欲する
幸に御面談を取り下さる可く候や馨咳に接せんことを中心よりの願に候御煩勞乍ら御返翰願上候 恐惶謹言
大正四年七月十八日  馬場辰二
和田啓十郎様           ・・・


毛筆で書かれた手紙文は格調高く、ほとばしるような青年の熱情と明治の人間の気骨を感じる。では願っていた「面談」は許可されたのであろうか?和田啓十郎の没年は大正5年7月8日である。書簡の日付からと和田没年の間はほぼ1年である。この期間に両者の接点はあったのだろうか?
このことに関しては、大塚敬節が「馬場辰二先生の冥福を祈る(漢方の臨床)」の中で触れている。以下面接に関する部分をそれより転載する。
“先生は、日本橋浜町の和田先生の御宅を3回つづけて訪問せられたが,始めの二回は面会が許されず、三回目にやっと面接が許された。ところが、その時は、和田先生の臨終であり、始め二回、面会を謝絶せられたのも、和田先生の病気が重かったせいであったことがこの時はじめて判明したという。”
これは、馬場・大塚の交友から考えると、大塚の馬場からの直接の見聞と思われる。したがって、ここに記載されていることは事実である、と私は考える。
1回だけの臨終間際の面談は、馬場に何をもたらしただろうか?悠久の東洋医学の歴史からすると、刹那の時間である。その珠玉の時間は、青年馬場にどのような影響を与えたのだろうか        
(漢方研究、2017/8)

参考
1、大塚敬節:馬場辰二先生の冥福を祈る、漢方の臨床、第5巻第5号
2、徳留一博:和田啓十郎宛入門請願の馬場辰二書簡、現存の軌跡、漢方研究、2016.8



 参考人招致された医師、赤坂の馬場

2017年はマスコミで森友・加計問題が大きく報道され、国会では関係者の参考人招致で大騒ぎだった。テレビで参考人への質疑をみながら、かつて参考人招致された医師を思いだした。
その医師は霧島市国分出身の馬場辰二(1888~1953)である。馬場は「赤坂の馬場」といわれ、吉田茂首相など政界人、皇室関係の方の主治医としても名を馳せた。
馬場は第19回の国会決算委員会(昭和29年11月29日)で参考人招致されている。その発端は馬場が書いた吉田茂首相への「診断書」であった。
当時、決算委員会では造船融資に関する件で吉田首相を証人として呼んで審議しようとしていた。そこに吉田から医師の診断書を基に出頭できないとの連絡があったのである。
診断書は次のような記載であった。
「病 扁桃腺炎 附鼻咽頭加答児 神経痛  附記 尚当分の間〈約3日間〉静養を要す」
比較的軽い疾患での「3日間の静養」が事態に大きく影響した。それに対して厳しい質問が浴びせられている。議事録から興味のある質疑応答を抜粋してみる。
○並木委員 ・・・熱は三十七度そこそこで、前後を通じてみるときに、結局は大したことはなさそうだ、こういうことですか。
○馬場参考人 ええ、そうです。
○並木委員 そうするとずいぶん無責任じやありませんか。こういう重要な決算委員会に出られるか出られないかを診断をされるのに、二十七日に診断した結果だけで三日間というものを出して・・・
○馬場参考人 先ほどからお話します通り御老人でありまして、御老人のかぜというものは大した御容態でなくとも要心しなければならないものですから・・・
○馬場参考人 診断書というものはそのときの容態で医者の方で必要と認めることを書くのですから、
○田中委員長 ・・・診断書は総理大臣の方から三日間と書いてくれと言われたのですか。
○馬場参考人 それは私の意見でやりました。
○田中委員長 しかしふしぎですね。あした臨時国会に出なければならぬが、きようは休んでというふうにちようどよく三日と合いますね。何か医者のほかに易学の学問でもされておるのですか。
○馬場参考人 かぜの容態で、大体三日ぐらいでなおる、約と書いてあるのです。病気のことは占いでははつきりわかりません。
○田中委員長 それではあなたの勘で当てたわけですね。
○馬場参考人 勘でなくて私の経験上したのです。
言質を取ろうとする委員の執拗な質問にも、馬場は臆せず淡々と答えている。この参考人招致の応答に、東京帝大の出身でありながら学位を取らずプライマリーケア医に徹した馬場の気骨を感じる。

付記:鹿屋からの陸上自衛隊移駐の誘致合戦に勝利した国分市役所には、
「馬場先生が診断書と引き替えに、吉田首相に判を押させた」
が伝説風に語り継がれていた。参考人招致は昭和29年、自衛隊移駐は昭和30年の出来ごとである。時の流れからみると「診断書」が現実味をおびてくる。
 現職総理大臣への証人喚問である。偽りを述べると偽証罪を問われるので、吉田首相は窮地においこまれていたのである。結果として「診断書」は吉田茂のピンチを救ったといえよう。
鹿児島県医師会報(2018.1)



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