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医療法人秋桜会

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心療内科の窓から

                          


7、人の世は雲の流れの如し(松下幸之助)
  ―鰯雲働く人を地に撒ける 福永耕二―


8月下旬(2004)のある日の夕方,鰯雲を今年初めてみた。ああ!秋だ!と思った。室内にいる看護師を呼んだ。美しい空を一人でみるには勿体ないと思ったからだ。
私の秋の楽しみは空である。炎天で地上を夏にしていた空も一息つく時があるのだろう。地上の人々ョ!よく夏を頑張ったねと、ねぎらっているような秋の空の情景だ。その空の主役は鰯雲である。
 
鰯雲はたらく人を地に撒ける 耕二

空は四季それぞれにきれいだが、秋の空には殊に癒される。空には人の心をホッとさせ、ストレスを解消させる働きがあるようだ。空、雲というと私は松下幸之助さんを思い出す。
松下さんは松下電器産業(パナソニック)の創設者で、経営の神様と呼ばれた人だ。
その松下さんが雲について書いた以下の文(松下幸之助「一日一話」)がある。

『青い空に、ゆったりと白い雲が流れていく。常日ごろ、あわただしさのままに、意識もしなかった雲の流れである。速くおそく、大きく小さく、白く淡く、高く低く、ひとときも同じ姿を保っていない。崩れるが如く崩れざるがごとく、一瞬一瞬その形を変えて、青い空の中ほどを、さまざまに流れてゆく。
 これはまさに、人の心、人のさだめに似ている。人の心は日に日にかわっていく。そして、人の境遇もまた、きのうときょうは同じではないのである。喜びもよし、悲しみもまたよし、人の世は雲の流れの如し。そう思い定めれば、そこにまた人生の妙味もあじわえるのではないだろうか。』

松下さんは明治27年和歌山県に生まれ。9歳で単身大阪に出、火鉢店、自転車店に奉公ののち、大正7年23歳で松下電器産業を創業。昭和54年21世紀を指導者の育成を目的に松下政経塾を創立。平成元年に94歳で没。松下政経塾は京セラの稲盛和夫さん、野田佳彦元首相ら多くの人材を育てた。
 松下さんは9歳で奉公に出たという。少年とも言えない年齢から世の中の辛酸を経験したことと思う。そのころから空を眺め、空に包み込まれるような愛を感じたのかもしれない。やがて世界的な経営者になり、大変な多忙な中でも空を眺め、束の間ではあるがストレスから解放され、また次の構想を生み出していたのだろうと想像する。
私はストレスに悩む患者さんに空を眺めることを勧めている。幼いうちに大阪に奉公に出て、後パナソニックを築いた松下さんの人生は、多くの人に生きるヒントと勇気を与えてくれる。



6、人の世に別れを告げるとき

まだ続く春の渚と別れけり 林亮

腫瘍の患者Aさんの看取りを行った。放射線治療や抗がん剤治療のながい闘病・苦悩の後であったので、限られた生になった期間を自宅で過ごされることになった。その主治医が私であった。
80代前半のAさんは仕事に加えて海を満喫し国内外の旅行を楽しんだ方で、私は尊敬していたし、そのライフスタイルは参考になっていた。
往診する度に、Aさんの心情を思った。痛みは麻薬でほぼコントロールされてはいたが、それでも時おりAさんを苦しめた。そのような中、限られた生の時を感じながら、何を思われたか?次の句のような心境だろうか?

まだ続く春の渚(なぎさ)と別れけり 林亮

読売新聞の「四季」(長谷川櫂)でみつけた句である。長谷川は次のように解説している。・・・はるかまで弓なりに続いている砂浜。そこを歩いてきた人が、いつか波打ち際から離れる。青春と別れるように。・・・
解説に同感であるが、さらに味わっていくと、「この世」に別れを告げる句にも思えてきた。「春の渚」とは「この世」のことであり、この世とは生まれ育ち活動した土地とその風景、家族との生活、友人との交わりなど、そして脳裏にある「記憶・思い出」それに財産などであろう。
数か月前、アメリカで起った竜巻被害をテレビが放映していた。家屋が跡形もなく破壊された住居跡に立って、高齢の男性が語っていた。思い出だけは竜巻も持ち去り・破壊することはできないと。生きている限り思い出は記憶として保存されるからである。しかし死は記憶・思い出も持っていくことを許さないようだ。
Aさんのながい闘病を支えたものの一つに思い出があったことは確かだ。最後の夜、同世代で大好きだった加山雄三の海の歌に、指で奥さんの掌にかすかではあるが確かに反応しながらこの世を旅だった。Aさんを支えた肉体と共に


5、冬の空・冬の雲がこんなに美しいとは!故郷再発見


冬雲をみてゐて教壇をふみはずす
             能村登四郎

1月のある朝、50M先にある私のクリニックに向かう(出勤)とき、美しいものをみた。発見かもしれない。凛とした青空をバックに冬の光を浴びた美しい雲が浮かんでいた。冬空がこんなにもきれいで、冬雲がこんなに美しいとは知らなかった。
冬の雲(凍雲)は冬の季語である。季語集には、冬の雲は空いっぱいにどんよりと垂れこめることが多い、と記されている。これから考えると、冬の雲は美しい、きれいとはほど遠いようだ。
ずっと以前に次のような冬雲の句をみて、滑稽に感じたことがあった。

冬雲をみてゐて教壇をふみはずす
            能村登四郎

どんよりとした冬ざれた空を見ていて教壇を踏み外すことが起こるなんて、とおかしく思ったのである。
ところが、今回みた冬空・冬雲は美しいとしか言いようのないものであった。このような冬雲ならば「教壇を踏みはすすこと」はあるだろうと合点がいった。
見慣れた風景を別な角度から眺めた時や写真や絵で写されたり描かれたりしたものを眺めたとき、新しい風景、異なる場所のように感じて、びっくりすることがある。ある時鹿児島市の石灯通りから見慣れた山形屋デパートを写した写真を見たことがある。外国の風景のようできれいだった。
このようなことを思っていたら、日常過ごしている毎日の中に美しいものがいっぱいあるようだ。これらのものは四季の移ろいの中で変化しているのである。私は見逃していたのだろうか?
故郷再発見とはこのようなことのようにも思える。私たちは生命を生み出す地球の美しい空間の中にいて、そこで時が流れているのだ。
        

4、過大な期待は人の体と心を傷める


 ―東京五輪(1964)マラソン銅メダルの円谷選手の自殺を基にしてー


父上様母上様 三田とろろ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました
 ・・・・・・      
父上様母上様 幸吉はすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。
・・・・・・
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました.
 (円谷幸吉の家族宛ての遺書・1973)
 
スポーツをやっている二人の少年を最近診察し、気になることがあった。
共に「期待」というものを背負っており、体と心が悲鳴をあげていた。
少年たちを診ながら、私は1964東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した
円谷幸吉(1941~1968・自衛隊体育学校所属)が、自殺したことを思い出した。
サブタイトルの文は遺書の一部である。円谷を自殺まで追い詰めたのは「期待」だった。
少年たちの症状は異なっていて小学高学年生は頭痛、中学生は腹痛であった。
やっているスポーツも異なっていたが、共通していることは父親から指導を受けていることであった。
二人とも一対一のマンツウマン指導ではなく、スポーツ少年団のようなグループの中での指導を受けていた。
また共通なことは父親が現役のとき良好な成績を上げており、二人の少年もまた低学年のとき県大会などで優秀な成績をあげていた、ことであった。
そうなると、少年も父親もその周辺も、これは才能がありそうだ、
プロになれるかもしれないという「期待」が生じてくる。
そうなるとやることは特訓だ!諸大会に備えて毎日練習に明け暮れることになる。
しかも家に帰ると指導者である父親がいる。
監督の家に合宿しているような感じだ。
このようなことがながく続くと、少年の心と体は疲労してきて、頭痛・腹痛・登校できないなどの症状が出てきたのである。
 円谷が銅メダルを獲得したとき、私を含めて多くの国民、所属していた自衛隊の関係者は4年後のオリンピックで金メダルを期待した。置かれていた遺書は2通。もう1通は自衛隊の上司に宛てて、自らの行為と果たせなかった責任を詫びたものであった。自殺はメキシコオリンピック開催の年の1968年1月であった。
少年のスポーツの目標は、特に小学生では体を動かすことの楽しさを知ることであり、基礎的な体つくりであろう。勝負の経験は必要であるが、それも程ほどが大事だと思う。このようなことをスポーツ指導の方は念頭において欲しいと思う。
 
参考、特集手紙:太陽、1978 No186


3, どの家庭にも潜む「期待」という魔物

―ひとが ほかからの期待に応えようとして どんなに 自分を駄目にしてしまうかー
             (吉野弘)

過剰な期待がスポーツ少年を精神的に圧迫することを別項で書いた。
よく考えてみると、それはどの家庭にも職場にも潜んでいるようだ。
期待されることは人を成長させるものだが、過剰な期待は危険を孕んでいる。
家庭の場合子供たちを不登校までも追い込むこともある。
 鈍感な私がそこに気付いたのは、
詩人吉野弘の詩(讀賣新聞・編集手帳)を読んでからである。
 
突然だが 
奈々子
 お父さんは お前に
多くを期待しないだろう
ひとが 
ほかからの期待に応えようとして
どんなに 
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから
お父さんが 
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ

家庭での子供への期待は人の歴史が始まったときから続いていると考えていい。
親が子に期待することは当然であり、それがあるから子供は努力し成長する。
しかしスポーツでなくともそれが過剰なときは子供の心と体を傷めてしまう。
しかし期待する親の気持ちの根底に, 吉野弘の気持ちがあるなら、
子供たちはどんなにか楽に行動できるかと思われる。
翻って期待に関して筆者自身のこと、わが家の子供たちのことを思い出してみた。
私自身のことではよくぞ「期待」に潰されなかったと思う。
我が家の子供たちに対しては強いプレッシャーはかけたことはなかったが、
それでも詩にあるような気持ちが強くあったら、
子供たちはもうちょっと少年期・青年期を楽に過ごせたのかもしれない。


2、沙知代夫人を失った後の野村克也元監督の放心

―飲食(おんじき)をせぬ妻といて冬籠 森澄雄―

ながい間開業医生活をおくっていると患者さんの中で、近年に配偶者を亡くした方を診察することも少なくない。夫婦は人生という荒海を生きるための同志だ、と私は思っている。その同志を失うことは人生の最大の悲しみだろう。
このような配偶者を失った人にどんな言葉をかけたらいいか考え込むことが多い。私は森澄雄のこの句を話のきっかけにすることが多い。この句は人の心を安寧にするのである。

飲食をせぬ妻といて冬籠

この句は折々のうた(朝日新聞)に掲載された。解説の大岡信は次のように書いている。
―「飲食(おんじき)をせぬ妻」とはどういう妻なのか。亡き人だからである。作者は昭和63年8月、文字通り分身のようだった妻の急逝に遭った。澄雄は折から他出していて死に目にあえなかった。「飲食をせぬ妻」の語に万感がこもる。―
森澄雄の句のような夫婦の別れの悲しさを教えてくれた番組があった。2019年(令和1年)の12月末、NHKスぺシャルで、最近の野村克也さん(元プロ野球監督、以後監督と書く)がテレビに映し出されていた。沙知代夫人が他界され2年がたった今も悲しみにくれている姿たった。名選手・名監督・名解説者であった監督はその各々の場で多くの記録を残した。その監督が球界関係者とも交流を絶って、一人で悲しみの中に過ごしているのである。テレビでの姿は放心に近かった。かつて知将といわれていた人だ。その姿に驚嘆した。
私は監督に森澄雄の句を贈りたいと思った。 
 
追記:野村克也元監督は2020,2,11に逝去された。

1、大相撲初場所徳勝龍の幕尻優勝に思う

 ―生涯にまはり燈(とう)籠(ろう)の句一つ 高野素十―

大相撲で平幕力士の優勝は極めて稀に起る。そんなとき私は嬉しくて、ガッツポーズを取りたい気分だ。努力したものへの神様からの褒美に思え、私たち普通の人間にやる気を起させるからである。
2020年の大相撲初場所で徳勝龍が33歳で20年ぶりの幕尻優勝をやってのけた。平幕力士でも勝ち進み、優勝争いに加わるようになると、手がつけられなくなる。今回も千秋楽で徳勝龍を大関貴景勝と当たらせている。そこで勝って堂々の優勝である。
平幕優勝はその力士の努力の賜物なのであるのだが、私には一所懸命努力したものに与えられた神様からの褒美のように思える。苦しみながらでも努力を続けていると、嬉しいこと(成果)が起ることを教えてくれる。神様はみていて下さったのだ。そんなとき思い出すのが、高野素十の句である。
 
生涯にまはり燈籠の句一つ 

この句は「現代俳句(山本健吉・角川文庫)」に載っている。山本の解説をみてみよう。
 ・・・この句はしみじみとした情慨のこもった挨拶句である。句が人々の記憶の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手な故人は、下手の横好きで熱心であったが、「まはり燈籠」の句によってたった一度人々を三嘆させたことがあった。故人といえば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。もって瞑すべし。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。・・・
 私には、この句は弔句(ちょうく)ではあるが、努力する人への激励と人生の応援歌のように思える。
私も「まはり燈籠」のようなことができればと思いながら、毎日の診療を続けている。






       
  



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